遠くに行きたいと言ったやつに行けばいいと言ったんだと、夕陽のさす教室、ぼんやりとした声で男子がとなりの席のクラスメイトの女子に言った、ようだった。人に対して向けたことばというより、それはただその空間にこぼしただけといったほうが正しかったか。明確な返答を求めたものではけっしてなかった。

「澄晴、、また明日ね!」
 教卓の前で手ぶらの女子が右手を上げ、ノートを抱き抱えた男子が左足を上げて別れを告げる。後方に残された澄晴は片手を上げ、は両手を頬の横で握ってひらくのを数回くりかえした。
 澄晴とはふたりで日直であったわけでも同じ委員会の仕事があるわけでも一緒に帰る約束があるわけでもなかった。ちなみに日直は今しがたここを出て行ったふたりである。ただ、澄晴とは今日一日なんだかぼやっとしていた。おたがいに、ああなんかとなりのやつも心ここにあらずって感じだなあ、くらいの意識はあったかもしれない。そうして最後の最後までぴりっとできなかった彼らは帰る準備すらものろのろで、教室に取り残された。それだけだった。
 だから澄晴から投げたような会話の種も、ほんの気まぐれ。ただテンポがたまたま似通っていた相手への遅ればせながらのご挨拶程度のものだと考えられる。となり同士に座っているため前を向いて頬杖をついているふたりの視線は合わないが、たしかに空気は混ざっていた。
「遠く? 北海道とか?」
「もっと遠く」
「ブラジルかあ」
 沖縄かあ、暑そうだなあ、みたいなテンションでのんきにつぶやくに反して澄晴はやや険しい表情をしていた。眉間が狭まっているのは西日がまぶしかったからなのかもしれない。
「……ちがうか。行けそうな方法を提示してみたんだ」
 ブラジルどころか、門をとおって名もわからぬ国へ行ったのだと、澄晴は訂正せず、冒頭の自身の発言を軌道修正した。
 なにも知らない、知るよしもないただのクラスメイトにだからこそもらせることばもあったのだろう。はまだ机に散乱していた教科書のページをぱさぱさぱさとめくりあげていくだけだ。
「でも、そんなのありえないことだったんだ。おまえがパイロットになってプライベートジェットで行けばいいだろ、みたいな、ふざけたはなしでさ」
「それはまぁ、さすがのちゃんでもあきらめますわ」
 いったい自分を何者だと認識しているのか、はそんな無謀な方法を提示されてもお手上げだと首をすくめた。ため息でもつかんばかりに息を吸い込んだ澄晴は、
「いや、ちゃんならまだやりそうで納得もいくかも」
「澄くんのわたしのイメージどうなってんの」
 やっととなりに目線をうつしたに合わせて、澄晴は体ごと横に向けた。
「でもさ、あいつは行っちゃったんだよね」
「まぁ、パイロットになるのも、プライベートジェット買うのも、不可能ではないからなあ」
 あいつってだれ? それに、なんでそんなはなしをわたしにするの? などといった愚問をは口にしなかった。代わりに、よし澄くん、とが引き出しの中に片手をつっこむ。
「この紙にありったけの思いを書くんだ」
 澄晴の机にすべらされたお世辞にもきれいな状態とはいえない用紙には、うっすら黒と赤の文字がすけている。
 怪訝そうな表情を向ける澄晴には、これは親に見せられるはずもない赤点ギリギリの現国の答案用紙だと教える。それもたしかに気になる点ではあっただろうが、筆を握れという指示のほうが問題であった。
「えー、おれ、書かないよ?」
「気持ちを書き出すというのは大事な作業だよ」
「国語赤点のやつがよく言うね」
「だから赤点は回避してるんだってば」
 彼らの空気感が似通っていたのはほんとうにたまたま今日だけのはなしだったのだろうか。絶妙に論点の噛み合わないふたりはしばらく目線を交わらせる。
 見ないであげるから、とは両の手のひらをそれぞれ目に押し当ててまた前を向いた。
 グラウンドで行われている部活動のざわめきだけがそのあいだじゅう響いて、観念したかのように紙をなぞる小気味よい音が流れたが、すぐに聞こえなくなる。長文を書いた筆音ではとうていなかった。
 目隠しをといたに澄晴が終了の意思を誤印だらけの答案用紙を表面に変えて示す。たしかにギリギリ補習の受講は回避できる点数ではあった。
「じゃ、紙飛行機にでもして飛ばしちゃおう」
 はそう言って、足と腕を組んだ。ふんぞりかえっている映画監督さながらである。
「……いいの?」
「……いいよ?」
「そう遠くには飛ばないよ。生徒かご近所さんが拾ったらちゃんの知能の低さがバレるけど、いいの?」
「もう澄くんにバレたから、どうでもいいよ」
 意外にもにとって澄晴に日頃の不勉強が露見することは苦いことだったらしい。それと引き換えに、なにかしら不満の残る様子の澄晴の憂さ晴らしを提案したの意思を澄晴には無下にすることははばかられたようだった。

 折り紙に向かない長方形の紙を器用に折りあげていく澄晴の手元とともに机の影が動く。この飛行機の折り方に関しては長方形に分があるらしい。
 翼をひらいて、そのおへそあたりをつまみあげた。おしりのほうにはの答案が柄のように浮かび上がっていて、頭のほうには折られることを想定されていなかった澄晴の筆跡が数文字見切れてしまっている。なんとも個性的なそれを左右上下とひっくり返して完成品を観察すると、澄晴は席を立った。は体を窓のほうへ向けて、片肘をつきその動きを追う。
 鍵を下ろしてガラスを引くとカーテンが外へと吸い寄せられるようになびく。テールウインドで飛行機は離陸をしない。飛行機は向かってくる風に対して飛び立つものだからだ。澄晴はそれを知っていたからこそ、ためらった。でもそれも、ほんの数秒のことだった。
 澄晴が窓から身を乗り出す。左腕を引いて、押し出し、指先を紙飛行機から離した。おっ、というの声といっしょに風にのる。澄晴にはそれがスローモーションのようにみえた。
 三門市上空を飛行機は飛ばない。いつ門がひらくかわからない場所を飛行ルートには設定しないのだ。
 ふわふわと飛び続けていた紙飛行機をながめていたのは、どれくらいの時間だったかわからないが、けっして数分の単位ではなく、きわめて短いものだった。突如風向きとその強さを変えた風にあおられ、あろうことかこちらへと引き戻されてくる。
 今度は澄晴があっ、と声を出す番だった。出て行ったはずの窓から入り床を目掛け降下、引きずるようにランディングした。
 ふたりの目は転がっている歪な紙飛行機をとらえている。
「はは、これはひどい」
「そう? 逆にすごくない?」
 の手のひらが鳴らすかわいた音がその帰還を祝う。
 彼女の負の遺産隠滅のため、ひいては自らの他人へは語れない感情をふたたび殺すため、澄晴はゴミ箱に投げ入れたほうがいいだろうと対象物まで歩み寄り、拾い上げようと腰をかがめた。
「戻ってくるといいね」
 指先をうすい紙で切ったような一瞬のちりつきをごまかすように、ゆっくりまばたきをくりかえす。こぼれる水滴はないが、澄晴は一度天井をあおいでからに向き直った。
 つまみあげた飛行機の目的地は変更を余儀なくされる。