没収試合
犬飼くんは幼稚園児のころから、たいそうおモテになられた。
その容姿もあったと思うけれど、なにより女の子の扱いというものに長けていた。お姉さんの影響もあって、感覚的に理解できていたのだと思う。
小学校低学年のころ、恋バナをしようと友人たちがわたしを誘い、好きな人を述べなければならなくなった。好きとはなにか、当時のわたしには判断がつかなかったけれど、答えなくては変な子だと思われる。そうしてわたしは口に出した。
「犬飼くんとか、かっこいいよね」
そのいちどだけで済めばよかったのに、わたしはそれから何度もそのセリフを言わなくてはならなくなった。何度も何度も、刷りこみのように言い続けてしまえば、わたしは犬飼くんを意識せざるを得なくなる。
なんとも正当ではない理由で──そもそも正当な好きになる理由ってなんなんだろう──犬飼くんという存在を恋愛の対象として認識することになったわたしは、みんなとの話の種になればと彼の連絡先も聞いたし、バレンタインデーにもチョコレートを渡したし、しまいには彼と同じ塾に通って、同じ高校にまで進学した。親は突然勉学に目覚め、偏差値の高い高校へ入学したわたしの変貌っぷりを、素直によろこんだ。そんなバカな話があるかと思うが、あったのだ。さらに驚くべきことに、わたしはボーダーにまで入隊してしまった。ここまでくるとこじらせているどころか、ただのストーカーである。
ただ、ひとつここでみなさんにお伝えしておかなければならないのは、すでにわたしは小学校高学年のころのホワイトデーの時点で、犬飼くんに振られているということだ。
振られたとひと口に言っても「好きではない」「付き合えない」と跳ね除けられたわけではなかったと思う。思う、というのは、わたしは都合の悪い思い出を器用に削除しながら生きているので、こう、数年時が経ってしまうと詳細が思い出せないのだ。それはやっぱり、わたしの犬飼くんを好きだという気持ちは、本物ではなかった証拠だったりするのかもしれないけど。
とにかく、進展がのぞめないことだけははっきり理解していた。それでも、微妙な絶妙な距離感の幼馴染──あんまり馴染んではいないが──として、つかず離れずの距離で地元の友だちと遊んだりできれば、それでよかった。
犬飼くんを追いかけ回してはいるけれど、恋愛感情としては過去の話。ただただ、犬飼くんはわたしの推しのような、でも、人間味のある、偶像になりきれてはいない──そう、わたしにとってのモチベーションみたいな存在だった。
夜、訓練を切り上げて本部から出ようとしたら、外へと続く扉の向こうに犬飼くんを見つけた。二、三人座れそうなベンチに、ひとりで座っている。
お疲れさま、と声をかけてすれ違おうとしたけれど、いつも以上にふんわりとした声が返ってきて、思わず立ち止まってしまった。すん、と鼻をすすったら煙草とアルコールのにおいがした。
今日は野球部の試合があったはずだ。察しのよいわたしは、諏訪隊室での打ち上げに参加した犬飼くんが、すすめられてお酒を飲まされたか、空気を読んで自主的に飲んだか、というふたつの選択肢を思い描くことができた。
ちなみに犬飼くん、野球はあまり得意ではないらしい。こりゃダルい、などとぼやきながらも外野フライをきちんと捕球してはいたけれど、バッティングのほうは鳴かず飛ばずだった。各隊から可能な限り一名は野球部に登録するように、と書かれているアナウンスを読んだとき、犬飼くんの所属する隊の面々を思い浮かべて、同情した。
酔い覚ましなのか、とお酒くさい犬飼くんに問えば、首を縦にゆらした。それ以上とくに話すこともなかったので、わたしは立ち止まって、犬飼くんを見下げているこの時間を後悔する。犬飼くんは、陽気なようで切ないようなメロディーの鼻歌をきざみはじめた。さっさと立ち去れという合図かな。
防衛任務の夜勤組の交代時間が過ぎ、訓練をする隊員も少ない時間帯の本部前はとてもしずかだ。このあたりには基本的に車ひとつ通らないのだから。
「なんか、疲れたんだよね」
響いていた鼻歌が、突如途切れた。
「……なら、帰ればいいんじゃない」
そりゃあ、今日は生身で試合をしたと聞いているし、疲れるだろう。未成年に酒を飲ませる悪いおとなたちの宴会になど付き合わずに、帰ればよろしい。
思ったことをそのまま言えば、そうじゃなくてさ、と否定がとんでくる。
「じゃなくて」
いつになく言葉を濁す犬飼くんは、わたしが想像していたよりも酔いがまわっているのかもしれない。いつか地元のメンバーでお酒を飲むときは、犬飼くんにあまり飲ませないようにしないと。
「……なんでも、にこにこして請け負って、疲れた?」
犬飼くんがわたしと会話を続ける気持ちがあるなら、とわたしが常々している犬飼くん評を、本人にも面と向かって伝えてみることにした。
「でもそれこそが、自分の価値だって思ってる」
「ね……」
「そんなに苦ではないけど、たまにこうやって、我にかえるの?」
「ねえ」
犬飼くんが立ち上がるのと同時に掴まれた手首が、勢いよく引っ張られて足元がぐらつく。鼻先を甘いお酒のにおいがくすぐったときには、口の中にもうすく広がっていた。
わたしは犬飼くんにとって、どれほど不要な人間なのだろう。わたしは今後、正々堂々と友だちを名乗ることすらも許されない。