変化球は嗜み
ボーダー野球部の設立に関してはほんとうに、なんの前触れもなかった。なんでもない日に、突然アナウンスがあった。だから、どうして野球部なんだろうね、とオペレーターたち数人で話していたときに自分が食べていたランチがオムライスだったなあ、なんてことを覚えていたりする。
玉狛の迅くんだけは、もしかしたら野球部ができることを驚かなかったのかもしれない。でも、いきなりボーダーのいろんな人たちのユニフォーム姿やバットを振るシーンなんかが視えはじめたというのなら、奇妙で混乱するだろうし、なにより愉快でたまらないだろうな。
そうして、本部からの通達で募集がはじまった野球部に、達人は入部した。そうなるんだろうなあ、と思っていたのでまったくびっくりしなかった。隊員たちは日々の任務、ランク戦、そして基本的には学業もある。優先順位のかなり低い野球の練習時間などそうそう取れるものではないので、きっと強くはならないだろう。
はじめての練習を終えた達人を出迎えて、そのままシャワーを浴びるように誘導してしまって、少しだけ後悔をした。訓練や任務で隊員たちが汗をかく、といっても換装しているのが常なわけで、がんばったあとのさわやかな汗の匂いを、しっかり味わってもよかったかな、と気がついたのだ。我ながら気持ちが悪いとは思う。
そこまで考えてから、今度は先週末のことが思い返されて耳が熱くなる。湿ってぺたぺたと触れ合う肌からも離れがたく、そのまま抱き合って眠った夜。体勢を変えようとしたら乾いた肌同士がくっついてしまっていて、ブラジリアンワックスでも塗って剥がしたのかというほどするどい痛みが肌を擦って、ふたりで泣き笑いをした朝方。わたしは達人のその匂いを、すぐ側で感じたことを思い出した。身体を動かして汗をかくというのはなにも、すがすがしい青春まがいのことに限らないのだった。
わたしと達人との出会いはボーダー本部だった。どんなことでも始まりそうで、なんにも始まらなさそう。要するに普通の出会いだった。初対面がいつだったかとか、なにを話したのかとか、なにひとつ思い出せない。
その後も特別に仲がいいというわけではなかったけれど、同い年だし、ばったり会えばそれなりに話をするし、たまに臨時で生駒隊のオペをさせてもらうときには指示以外の話もすることはあった。
そうしているうちに、わたしは気がついた。この人は、わたしにはかわいいかわいいと言ってくれないことに。
だから、とある日の防衛任務中に無線を通して、そのまま彼にその疑問をぶつけた。どうしてわたしにはかわいいって言ってくれないわけ? と。
「だって、かわいないやん」
美しいやろ。
そう言って、弧月を振った。隠岐くんが吹き出した息で鳴ったノイズ。家々が真っぷたつに崩れる音。そして水上くんが、「イコさん、逆です、逆」と呟いたのはほとんど同時だった。無傷のトリオン兵に、もしも感情としゃべれる口があったなら、水上くんと一緒に達人の背中に向かって、ツッコミを入れてくれていたに違いない。ちなみに海くんはわたしの横で、わたしの顔を納得のいかない様子でまじまじと見ていた。失礼なやつだ。
そこからは生駒隊の面々になかば押しきられるかのような形で、とんとん拍子であった。
タオルで髪を拭くのもそこそこに、達人がソファに腰を下ろす。六畳の小さな部屋には大きすぎるふたり掛けのソファに達人と並んで座ると、それはそれで小さい。ひとりで暮らす分には身の丈にあったアパートだけれど、こうしてふたりで過ごす時間が増えると、どうしても手狭感は否めない。
達人の肩に頭を乗せて、前を向いたまま今日の練習の成果を尋ねる。案の定、芳しくない報告を受ける。
さて、なぜこの人は未経験なのにピッチャーなどをやろうと思ってしまったのだろうか。隠岐くんにでも乗せられてしまったのだろうか。当の隠岐くんは、野球などやるわけもないけれど。あ、でも隠岐くんのオールドスタイルはちょっと見てみたいかも。ちょっとじゃない、めっちゃ見たい。
「野球部ってさあ、男しか入れないのかな」
「……いや、帯島ちゃんものぞき来とった」
「えー、じゃあ、わたしもキャッチャーやろうかな」
わたしが言い終わるのも待たずに、達人は声にならない声をあげて頭を抱える。そのまま、べろんと大きな身体を倒して、手前のテーブルに突っ伏した。
「そんなん、危ないしあかんに決まってるやろ! 怪我したらどーすんねん!」
むくりと起き上がってわたしの顔を真剣に見つめる達人に、わたしは思わず吹き出して至極真っ当な意見を述べることにする。
「トリオン兵のほうがよっぽど危ないよ」
「それは換装……いや……ボーダー、辞めとく?」
「辞めないよ!」
達人の頭を引っ叩く。痛いやん。と達人はわたしの手を掴み、自分の頭に乗せて上に下にと勝手に動かした。通称、セルフよしよしだ。
そもそもわたしは中央オペレーターである。危険がないことはないが、前線にはいない。
「ソフトやってたし、大丈夫と思うけど」
「あかんあかんあかん! ソフトと野球はちゃうもん」
「じゃあ、マネージャーとかどうよ」
「もっとあかん!」
バン、と達人の手のひらがテーブルに落とされる。想像していた以上に大きな音が出たのか、達人の普段からあまり動いていない表情筋が、ますます硬直していた。
達人がなぜ頑なにわたしの入部を否定するのかは、だいたい予想がついている。そういうやりとりは中高生のうちに飽きておくべきよと思うが、かくいうわたしもそんな経験はとくになかったので、このやりとりを楽しんでいる節は否めなかった。
「達人と青春ごっこしたいだけなのに」
「ちゃうやん……。達人さんかて青春取り戻したいねんけど……ほかの男とキャッキャされたら……耐えられん……」
野球部に入らなくとも、すでにボーダーという組織は圧倒的に男が多い。オペレーターには女が多いとはいっても、いつもわたしは男と、達人の言葉を借りれば、キャッキャしながら職務をまっとうしている。
「わたしが試合に出るのは、換装してやる試合のときだけ。さらに、達人とのバッテリーに限る、だったらどうよ」
「美しいお顔に当ててしもたら……想像しただけでも無理……」
「防具つけてるから平気だって。達人が投げる球は全部取ってあげるし。女房を信頼せんかい」
「絶対絶対、女房役を達人さん以外としたらあかんで?」
「わかった、わかった」
達人はわたしのしたいことを諦めさせるような、器の小さな男ではない。それをお互いにわかっていて、茶番をくり返している。なんなら、達人は最初からわたしがキャッチャーをやると踏んでピッチャーを志した説すらある。あ、いや、この説濃厚。なぜ今まで気がつかなかったのか。
でももちろん、怪我をしてほしくない、ほかの男と今以上、必要以上に近づいてほしくない――そんな本心が、ちょっとは入り混じっていることも承知だ。
ありがとう、と抱きつけば、頭に達人の顎が乗せられた。気がつけば重みが上半身へと流れて、そのままふたり、ソファに沈んでいく。