ファウルボールにご注意
フリーバッティングをはじめてしばらくしたところで、仮想訓練室もとい仮想グラウンド(ご丁寧に観客席まで再現されている)の出入り口が開くのが見えた。オレの多くはない野球場の知識を総動員してもおかしいと思うけど、リリーフカーや球団の着ぐるみが出てくるはずの外野の出入り口が訓練室のそれとつながっている。普通の考えなら、ベンチ裏とつなげるんじゃないんだろうか。
開いたのに、なかなか人が出てこないと思ったら、いつもどこからか現れる、あのネコ。想定していたより小さいサイズだったから、気がつかなかった。我が物顔でグラウンドを闊歩している。
あら、危ないね。帰り支度をしていた幼馴染の女はそう呟いて、ファウルゾーンを行き来しているネコの元へと駆け寄っていった。
野球なんて、片手間にプロスピでしかやったことがない。荒船隊からわざわざふたり出す必要なんてないし、こういうのは荒船さんのほうがよっぽど向いている。ぶつくさと文句を垂れながら生身にジャージやヘルメットを身につけて佇んでいたオレの肩を東さんが叩いて「今日はC級の女子野球経験者が教えてくれるぞ」。
だからそう、イライラせずにな、とでも言うように笑ったのは二時間以上前の話だ。その瞬間から、オレが元気になったかというと、むしろ胃痛がしそうなもんだった。東さんのいう女子の顔は頭に浮かんでいたし、案の定姿をあらわした幼馴染はオレを含めた野球初心者組に反して換装していて、フライをあげたり、ゴロを打ったりと、世話をてきぱきと焼いている。言葉尻はいつでもやさしく、とてもスポーツマンのようには見えない。実際、この瞬間まで幼馴染に野球経験があると想像できた人間はいないだろう。
文武両道。オレとは正反対の幼馴染。それこそ今日もこれから塾へ行くはずだ。換装体での戦闘に関してはとりわけ目を引くものってのはないけど、ぜんぜん才能がないってこともない。実際、B級に上がれるのだってそう遠くない未来のはずだ。銃で撃つより、バットを振ったりボールを拾って投げたりするほうが得意なだけで。怪我で、それができなくなっただけで。だから、ボーダーに入ったというだけで。
素振りをしながらネコと幼馴染の行方を追えば、いつの間にか当真さんも合流していて、ネコは頭上の定位置についていた。ふたりと一匹が固まって、談笑している。制服のスカート丈が思いのほか短いな。そんなことをぼんやりと考えた。
同じく心ここにあらずといった面持ちのカゲさんと交代して、打席につく。オレは野球がそんなに嫌なのか。幼馴染に何かを教わるのが嫌なのか。理由は全く定かではないけど、もうそんなのは全部だろう。とにかくさっさとこの場を離れたかった。
バッティングピッチャーを買って出たさとけんがボールを持った手を掲げて揺らして、大きく振りかぶ───らない。さとけん、サイドスローだ。あ、振り遅れた。ボールは低い弾道で鋭くファウルゾーンを通過、そして、ネコが飛び降りたのとどちらが早かったか。幼馴染の背中あたりにクリーンヒットした。
やばい。あいつ、生身だ。そう思ったときには、当真さんのでかい背中が幼馴染の姿を隠してしまっていて、様子は窺い知れない。反射的に天を仰ぐと、解説席仕様になっていた制御室で煙草をふかしていた諏訪さんと、横にいた堤さんが身を乗り出しているのが見えた。───そもそも、諏訪さんは
念のため、とボーダー提携の総合病院に連れて行かれたという幼馴染を追って、受付前の長椅子に腰をおろした。スマホのゲームアプリを起動する気にもならない。しばらくぼんやりと掛け時計の秒針を目でなぞっていた。精算を終え、財布をカバンにしまっている幼馴染が片手をあげるかあげないか、のところで受付に視線を戻したから、ほとんど同時にお互いの存在を認識した。
「義人だったのかぁ」
わたしにボールを当てたのは義人だったのか、ということだろう。
実際そうだし、そうです、ごめんなさい。とオレはすぐに答えるべきなんだけど、舌打ちしたくなる。オレが加害者だからここにいるわけじゃない可能性だってあるじゃん。
そうは思ったけど、幼馴染の思考は当然だ。オレたちがふたりで過ごすような時間は急激に減っていた。決定的な何かがあったわけではない。ただ、男女の幼馴染というのは、そういうもんなんだろうと思う。そういう風にしたかったのかと聞かれると、そうでもない。ただ、必死に抗おうとしたわけでもない。結果、一度少し開いてしまった距離感を埋めるのに、少なくともオレは苦労していた。近づくより、遠ざけるほうがよっぽど楽だから。
「まさか、狙った?」
「そんなわけないじゃん」
「射撃といっしょでピンポ……」
「だから、違うって。ごめん」
なんとなく立ち上がるタイミングを失って座ったままのオレの前に、幼馴染は両手でカバンの肩紐を握って立っている。普通に歩いているし、座ろうとしないし、とくに問題はなかったんだろう。制服の上からじゃわからないけど、湿布くらいは貼ってもらっているのかもしれない。
ファウルボールにはこっちが注意すべきなんだから、義人は悪くないよ。幼馴染はそう言って小さく微笑む。
「それにさ」
「……なに」
「……当真さんに心配してもらえたし、ラッキーだったよ」
「……なんだよそれ」
「あは。罪悪感、減った? なくなった? 最初から、なかった?」
本当なのか、嘘なのか、ちょっと本心なのか。それをふざけて、かつ確実に追求できるほどオレは冷静ではなかった。
それで、その当真さんはもう帰ったのかよ。じゃあ、脈ないだろ。あの人、優等生とか絶対タイプじゃない。おまえのオレに対するちょっと小馬鹿にしたような態度とか、シニカルなとことかは、すきだと思うけど。オレ以外に見せたりしないだろ。そんなんじゃ、すかれない。
もちろん、そんなことを言えるほど、頭に血ものぼっていなかった。
あっ、と目の前の女はオレから視線を逸らして、自動ドアのほうへと目を向ける。その視線の先には、大型バイクにまたがる、見覚えのある体型。
「当真さん、送ってくれるって言うから」
怪我もほんとうに大したことなかったから、気にしないでね。わざわざ、ありがとう。
ひらりとスカートを翻し、幼馴染はローファーの踵を鳴らす。そんな風に笑うなんて、聞いてない。