苔生した池の岩、塹壕の土の湿り気、火薬の残り香、不気味に冷えた鏢刀、生身のような温い面───懐かしい朧な情調に夢かと思い、それならば覚めてくれるなと強く願えば願うほどに霞んでいたものが晴れていかんとする。
 何故、勿体ない───瞼を意地でも開くまいと瞳の奥までぎゅうと瞑って睡魔に身を委ねようと試みるが、意識は反対にどんどんはっきりとしていく。これではもう抗えない。
 それならばとゆるゆると隣の布団へ手を伸ばし、その掌の位置を探り当てた。もうひとつの今この場にある温もりを感じたかった私の手が捉えた掌は、長時間布団に包まっているはずなのにやけに温度がなかった。
 ぶるりと身震いがする。拭えぬ違和感は私の目をうっすらと開けさせ、男の手首を握り、離し、口に近づけ、首元を触らせる。流れてゆく作業で確かめた。
 脈がない。息がない。やはり、脈がない。

 再び背筋を指先で上から下へと撫ぜられたような寒気を覚え、私は寝転がったままでいるが意識は完全に夢から現実に移動した。それなのに六年間近くで接し続けた気配のひとつが消えない。むしろ濃くなる。ここでは感じたことのないそれが確かにある。
 これはどうにも、何故だか、夢ではないらしかった。俄に信じ難く、信じたくないことだ。
「三郎?」
 布団に身体を預けたまま人影のない空間に呼びかければ、微かに人の気配が漂う。
 鍛えられた夜目はそれでも姿を捉えない。であれば、そこにはいない。そこではなく、どこかにはいる。
「三郎の気配を忘れると思ったの?」
 強気に出てはみたけれど、私はつい今しがたまで夢現だった。
 数年忍びの学からも実からも離れてたとはいえ、恐らくは幾らかの時間、異変に気がつかなかったのだ。三郎はその存在を完全に消し去り、今になって態と、気配を出したに違いなかった。
 私達を助けに来たのか。それで私は間に合ったが、夫は手遅れだったのか───同期の男のそんな決死の行動が真っ先に浮かばないような生活を長々続けた学舎やそこで築いた二人の関係が疎ましく思える。良いも悪いも私は三郎のことをよく知っていた。
「三郎がやったの?」
 親が子を責めるような問いかけに三郎は答えない。身体を横向きにし、肘に力を込めて上半身を起こす。
 三郎が、さあな、どうだかな、好きにしろ、などと濁すときはまだいいのだ。肯定か否定か二者択一を迫られて三郎が黙るときは単純に答えたくないときだった。完全に機嫌を損ねている。もしくはその問いへの暗に、肯定。
「一緒に来るか」
 やっと溜息混じりの声が反響した。
 肩を並べた年月よりは短いとはいえそれでも数年振りの再会だ。再び巡り会うことを夢見てすらいなかった相手。どうして手放しで喜べないものにならなくてはいけないのだろうか。恨むべきはこの乱世だと言えば済むか。
 夫は聡く、狡い男だった。夫亡き今、北叟笑む人物はいくらか想像できた。簡単なことだった。夫のために僅かながら孵ることのなかった卵としての進言もしたが、それは今無に帰した。
 しかし夫は私に対しては善人であった。厄介な舅姑からも私を遠ざけ、苦の少ない生活を私に与えた。夫の特異で希少な他人を脅かせる才がこの事態を引き起こしたのなら、誇らしいことのようにも思う。
 それでも、死んでは元も子もないのだ。
「……そんなことをしたら、私が追われるでしょう」
 不自然な死体なのかはまだ流石に確かめられない。血生臭さや毒物独特の香こそないが、首絞の痕くらいはあるかもしれない。
 三郎が事に及んだのであればそんなものは残さないかもしれなかったが、息のない夫を置いて私が姿を眩ませばそういうことだと瞬時に理解されるだろう。三郎の提案は莫迦げていて、私の返答は現実だ。
 徐々に白んでいく空が三人の輪郭を浮かび上がらせ、私は息を飲む。数歩進めば触れられる距離に立った、私の顔をした三郎の肩が一瞬上下した。
 さあな、どうだかな、好きにしろと言わんばかりの身振りに場違いな笑みさえ出てきそうだった。否、これは、この姿をみてもそんな莫迦げた返事をするのか、と今度は私に選択を迫るということか。
 きっと三郎は私の姿で至る所に言葉や行動で形跡を残して来ただろう。そしてこの後にも確実にそうする。三郎の隠遁技量から考えればそんな偽装は無駄遣いのようだ。
 大きく重すぎる腹を庇いながら掌を寝具にありったけの力で押し当てると、気怠げに三郎が歩み寄る。
 三郎の───私の───目の端が僅かに濡れたのが漏れる光で分かる。この男は私の代わりに泣いてくれるというのだろうか。
 そんなまさか。欠伸を噛み殺した副産物だろう。三郎にとって危機感の欠如した人間を捻るなど造作もないこと。まして旧友の感傷など、もっての外。
 眼前にするりと伸びてくる手を、できることなら振り払いたかった。
 頼むからその面を外して。曲がりなりにも愛した男を護れなかったその憎き女の面を。私を何時打ち捨てるかも分からぬその仇に縋らんとする愚かな女の面を。