「春の匂いになった」
昨日六年の集まりの為に長屋を出た時に吸い込んだ空気は、冬の軽い刺さるようなものとは違って実に重みを持った撫でるような優しいものになっていた。
学園長を前に整列して、隣に並んだ潮江文次郎にそう言うと案の定怪訝そうな顔をされた。かれこれ十五年の付き合いの文次郎が私の言うことに同意することは滅多になかったのでいつもの通りであった。しかし文次郎は柄にもなく「私達を見送る準備をしてくれているのかもな」とうっすらと口元を緩ませて笑った。その横顔を見て私は文字通り息を呑んだ。文次郎はその間一度も私の目を見なかったのだ。
今日をもって忍術学園の六年生は学園を去る。ここを離れて、また皆が一人も欠けること無く集まれる事なんて無いのだろう。欠けるのはもしかしたら自分かもしれない。そんな事を常に背負いながらこれから生きていかねばならない。そんなこと皆分かってる。だけど本当はそんな事分かりたくない。
六年は類まれに見る優秀な代だったそうで、全員の就職先が決まったそうだ。私はここからは少し遠い城の専属忍者となることが決まっている。諜報活動やら暗殺なんかの仕事でも請けてやろうじゃないかと腹を括っていたが、家族がいるのだからお前はそっちのほうは専門にしなくてよいと、主に城の護衛のほうを任された。大凡戦孤児の者たちを戦忍にするつもりなのだろう。私は人や生物などの気配や何かを汲み取るのを得意としていたので、持って来いの仕事だからそれはそれでよいと思った。覚悟が無い訳でもないし、実力が無い訳でも無い。私は六年のくのたまの中で一番諜報活動はこなしてきたし太鼓判を押されたくらいだ。だから戦忍として動いてくれと言われれば動く気もあるので、決して生半可な気持ちでは無い。だけど、安心している。溜息をついてしまうほど。
いつのまにか朝の日課となっていた散歩道をひとり歩く。春の訪れを感じたとは言えども、まだ朝方の澄み切った空気は少し咽に痛い。未だ桜は咲かず、木は緑色で、川のせせらぎと木の葉の擦れる音と自分の足音だけが交わる、いつも通りの散歩道。
そう思っていたけれどひとつだけ違うものが私の目に映った。それが何なのか考える時間はそう必要は無かった。私の背丈より少し大きくて、明るい茶色の髪の毛を持つ者といえば、天才と呼ばれる変装名人・不破雷蔵の顔をした鉢屋三郎しか、私に思い当たる節は無かった。選択肢に不破が出てこないのは、私が鉢屋の醸し出す何かを汲み取ることが出来るからだった。
鉢屋とは私が五年、鉢屋が四年の時一度だけ忍務を共にしたことがある。合同演習では無く、忍務という名の列記とした仕事だ。どうして私が四年と組まなければならないのかと私は文句を自分の心の中だけで垂れたが、彼の実力を噂に聞いていなかった訳では無かったので了承した。噂に聞く通り、彼の実力はいつも組んでいたくのたまの五年より遥かに上であった。それは性別の問題だけでは無かった。表現するに惜しい。私に初対面の挨拶をした時の鉢屋三郎と、曲者に初対面の挨拶をした時の鉢屋三郎はまるっきり違う人物であった。私が私が長けていると自負していた何かを汲み取る能力を持ってしても、彼が鉢屋三郎であると分かっていなければ気付かなかっただろう。彼もまた私と同じで、外見だけでは無く、何かを操る者だった。
「先輩」
それくらい。鉢屋との主要な交流はそれくらい。なんだか下級生の癖に実力あって、格好付けて遠まわしに言わなくていいなら、胸くそ悪くて苛々させられた。学園の思い出として持っていくには少し苦すぎる気がする。だから、横道に立っていた鉢屋をいつもの景色とは違うはみ出した物として通り過ぎてしまおうとしていたのに、鉢屋は初めて挨拶を交わした時と同じ声音で私の名前を呼んだ。””という名前は間違いなく私の名前””であるのに、酷く大切な単語のように聞こえた。立ち止まるのも億劫だ、と思っていたのに名前をそう呼ばれてしまうと立ち止まらざるを得なくなった。
お早う、と口早に言うとお早うございます、と年下らしく下手に回って返ってきたのでやっぱり虫の居所が悪くなった。そりゃあ、年功序列は常識だけれど。鉢屋だって、自分の実力のほうが私より上だということくらい認識しているはずなのに。
「今日、忍務だそうですね」
「…はぁ、よくご存知で」
式に出なくてもいいんですかと、鉢屋は私の目だけを見て笑顔で尋ねてくる。全く以て愚問だ。そんな問いかけ、文次郎だってしてこなかったっていうのに、避けたっていうのに。どうしてそうやってずい、と土足で入り込んで来るんだ。
昨日式の説明が学園長からあって解散した後、私はもう一度学園長からお呼びがかかった。私を雇ってくれた城に明日城に攻め込むという具合のことが書かれた書が届けられたらしく、護衛に回って欲しいとのことだった。拒否権が無いことくらい分かっていた。だから、私は今日皆とお別れは出来ない。そしてそれを知っているのは学園長と先生方と潮江文次郎だけのはずだった、のに。何故知ってるのかなんて問いは愚問であろう。別に訊く気も、その必要も無い。
「愚問だね」
「そうでしょうか」
「任された事はやらなくちゃ」
相変わらず鉢屋は不破の顔で私を見つめたままで笑っている。最後に本当の鉢屋三郎の素顔が見たいなぁ、なんてふと沸いた願望もこの笑顔で退けられてしまうのだろう。
「私が先輩として城へ行きましょうか」
「…は」
耳を疑った。何を言い出すかと思えば、私に変装して城へ忍務へ向かうだと? それはそれは立派に化けてくれることだろう。私は思わず鼻で鉢屋の発言を笑う。
「結構良い提案だと思うんですが」
「鉢屋がそんな腑抜けな事を言うとは思わなかった」
鉢屋三郎はもっと分別のある奴だと思っていたが、思い違いだっただろうか。捏造だったのだろうか。周りと温度が数度低い奴だと思っていたが、見当違いだったのだろうか。如何してそんなに人間みたいな事を言うのか。心を捨て、忍びと、私事を、日常と戦場での鉢屋三郎のように区別できる男では無かったのか。私は少なからず動揺していた。一刻前には全く気にならなかった前髪が気になってつい挙げた手を不意に鉢屋に掴まれた。
決してあの忍務で感じた鉢屋への印象だけでものを言っている訳では無かった。それなりに、あの後に鉢屋を見かけることもあったし、鉢屋の評判も聞いていたし、鉢屋と言葉を交わすこともあった。その上で私はそう考えていた。不意に見せる表情はとても十四歳には見えなかったし、まして下級生だなんて思えなかった。それなのに、何故。
「離して」
「皆にお別れくらい言ったらどうなんです」
「鉢屋には関係無い事だよ」
「そういう事じゃ無いでしょう」
私はもうまともに鉢屋の顔を見ることが出来なかった。鉢屋は私に卒園と仕事は違うのだと言っているのだ。仕事を断るだけの価値が卒園にはあるのだ、そもそも比べる事自体が間違っているのだと、私にだって分かり切っている事を、心の奥底に沈めた事を真正面からぶつけてくるのだった。そんな事、分かっているに決まってるじゃないか。お別れが言えないのだって、それこそ割り切れてなんかいないって証拠なのに。私の我儘なんかが通用する程安定した世の中では無いのだ。あっちでは戦、こっちでは戦、そっちでも戦。十五歳という大人が我を通すことなんてできやしない。鉢屋だって、分かっているはずなのに。
「なら、私もついて行きます」
「どうして」
「の巣立って行く姿が見たいからですかね?」
真上の木から鳥がばさばさと羽ばたく。私の卒園の狭間に、誰かが傍に居てくれる。その光景を想像して涙が出るほど安心してしまうのは結局意地を張ってみても覚悟を決めた振りをしてみても、自分は弱いのだということの表れだった。結局鉢屋三郎に頼ってしまうのだったら皆と一緒に巣立ちたいのだと我儘を言うのも同じではないかと思ったけれど、私の巣立ちを見届けてくれるその誰かが鉢屋三郎でもいいのかも知れないと思った。