窓ガラスに川が何筋も流れている。路肩に停車させてルーフを打ちつける音をかき消すようにクラクションを短くひとつ鳴らすと、辛子色の傘が少し倒れて水滴が飛びはねたが、すぐに降り注ぐ雨粒と同化する。
 うずくまっている女の背中にシャツと長い髪の毛ががぴっちりはり付いていて、握りしめている傘は雨除けの役割をじゅうぶんに果たしきれていない。まるで、なにかをかばっているようだ。
 女が立ち上がって、ゆっくりとこちらを振り返った。すぐに反応できるということは体調が悪いというわけではないらしい。
 スモークのかかっている運転席側の窓を開けるが、幸い横殴りでないにしても雨が時折顔をぬらすのがうっとうしくてたまらなかった。その隙間越しにおたがい見合ったまま、どちらも動かない。
「猫が!」
 しばらくそうしていたら、女が声を張り上げた。男性名詞と女性名詞のない日本語のそれでは性別はわからないが、動物の猫のことだろう。それに、どうしたってここで性別は問題ではなかった。
「飼えないから、見てました! 拾った瞬間から責任が生じるので!」
 どうやら女の背後には猫がいるらしかった。段ボールに入れられて、拾ってくださいとでも張り紙がしてあるのだろうか。そんな漫画やドラマ、人づてにしか聞いたことがない光景、ちょっとだけ見てみたいような気もしたがドアを開ける気にはならなかった。
 代わりに、女がさしていた傘をそっと地面に置いてから、数歩こちらへ歩み寄ってくるのを視線で追った。雨音に負けぬよう声を張り上げるのは柄ではないのだろう。
「飼えますか?」
「無理だね」
 遠征が多くてとてもじゃないけどお世話できるわけがない。そうでなくてもぼくがお世話をするなんて御免だ。
 そうですよね、とまるで聞かずとも答えがわかっていたかのように落胆するでもなく、女はつぶやいた。
 ぺっとり額や頬にくっついた髪の毛をはがす素振りもみせず、女はふたたび背を向け、女に所有権のうつっていない、今後もうつることのないであろう猫の元へと戻ろうとするのを引き止める。
「あんまり突っ立っていると、きみが捨てたように思われるけど?」
「……そう思って見ていたんですか?」
「きみが捨てられてるように見えてうっかり止まったんだよ」
「……はあ……?……でも、拾わないんでしょ?」
 変なはなしだと思った。女の言動がではなくて、それはぼく自身の言動が、だった。
 なんで停車して、クラクションまで鳴らしたのか。ぼくはスムーズに、きみが捨てられているように見えた、と答えたけれど、ほんとうにそうだったのかすらわからなかった。
 じゃあそうだとして、捨てられていることを確認したら満足だったのかな。体調が悪かったならどうしたのかな。猫連れだから拾わないのかな。猫がいなかったらどうするつもりだったのかな。
 そんな、生産性のないことをこんな雨の日にしてしまったぼくに、ぼくはめずらしく呆れた。
「車内を濡らしたくないからね、乗っておゆきなどとはぼくは言わないよ」
「大丈夫です」
 ほんとうにぼくに何の期待も寄せず、女はまた辛子色に向かっていく。
 バカな女だと思ったし、実際そう、女には届かないくらい小さくつぶやいて窓を閉め、パーキングからドライブに切り替えた。


 数十分前よりも小降りになった雨のなか、女は片手に傘をかかげ、片手にスマートフォンを耳に当てていた。だれか、飼える人間でも探しているのだろう。保健所に連絡するくらいならはじめからそうしていたはずだ。
 ひとつクラクションを鳴らしてから、腕をのばして助手席のドアを開けた。女はおどろいた様子でこちらを見つめている。もういちどクラクションを鳴らすと、弾かれたように彼女はしゃがんで猫を抱えて水溜りを蹴った。
 女が傘を閉じる前に助手席に置かれた猫の重みと動きで、シートにかぶせたブルーのポリエチレンの生地がパリパリと鳴る。傘を足元に投げ入れた女が、猫のくびねっこをつかむ。女が着席すると、さきほどよりも大きな音がひびいた。
 レジャーシート、タオルに猫のえさ。あらためて探してみるとコンビニにはなんでもあるものだな。
 女の膝のうえに乗った猫がみい、と鳴いて、ぼくは自分の膝に広げていたタグのついたままのタオルをかぶせた。
「とりあえず、病院に連れて行くべきなのかな?」
「そうですね。調べます」
 女は前かがみになって手元の液晶の水滴を指ではらいながら、アプリを起動させた。グーグルマップ上でいちばん近くに表示された住所を女が手際よくカーナビに入力し終わって、ルート案内の音声がスタートする。ぼくがダッシュボードの上のビニール袋を指差せば、女はそれをたぐり寄せた。
「貰い手に、アテがあるんですか?」
「……まあね」
 数時間後にスタッフたちが目を丸くして数秒、一騒ぎ起こる光景が、すでに見たことがあるのかと思うくらいにはっきりと浮かんだ。財政難のクラブとはいえ、食堂の残飯くらいならいつだって恵んでやれるだろう。
 そうですか、と安堵の声をもらした女が、シートに背中をつけて身を預ける。パリパリシャカシャカと女が動くたびに鳴る音におかしくなって、はは、と笑い声がもれる。となりの女は怪訝な表情を浮かべるでも、笑った理由問いかけるでもなく、なんどかCMで耳にしたことのある歌で覚えていた猫のえさのパッケージを切っていた。
「……こんな高級食材餌付けされちゃって、大丈夫かな」
 曖昧に笑ってアクセルを踏み込み、エアコンの温度設定を上げた。動物病院の前に、この女を乾かすほうが先ではないだろうか。
 そういえば、ぼくはどうして後部座席にシートを敷かなかったのだろうかと、明らかな判断ミスについてぼんやりと考えていたら、女が遅すぎる礼を述べるのを聞いた。