月も太陽も
ランク戦会場を見下ろせるガラス張りの窓の先に、見慣れた横顔を見た。スマートフォンを顎下に配置して忙しなく口と表情筋が動いている。周りに人はいないのだろう、スピーカーにして電話をしているらしかった。エレベーターに乗り、その場に俺がたどり着いたときにはカウンターに片肘をついて脚を組んで座っていた。持っていた端末は書類の挟まっているクリップボードの横に置かれ、ライターで口元の煙草に火をつけている。通話は続いていた。外に漏れ聞こえている声と話の内容からして、相手は彼女の同期でもある東さんだ。
クリップボードのクリップを押し上げ、A4の窓付き封筒を引っこ抜いている。ハサミなどを持ち合わせている様子はなく、フラップの隙間に指を突っ込んでビリビリと一気に破いた。きれいに開封されるわけもなく、切り口は斜めに入っている。こじ開けられた封筒から引き抜かれた二つ折りの用紙を片手で広げ、持ち上げる。仰け反りながらその内容を裏、表と確認していたが、すぐにそれはカウンターに放られる。身体を正面に戻したところで、ガラスに映る俺の姿を捉えたらしい。声にならない悲鳴が上がった。
「いるならいると言ってよ!」
「いる」
「今じゃないよ!」
スピーカーから東さんが状況を尋ねる声が響く。いやいや、諏訪洸太郎くんが忍者のように現れたからびっくりしたんですよ。じゃあ、そういうことでなにとぞ、よろしくお願いしますね。人事部の女が封筒に書類を戻しているあいだに、端末に表示されていた時間のカウントが終わった。
「今日は下で見ないの?」
「いんの見えたし、上がって来ました」
彼女を見かけたら声をかける、追いつけそうなら追いかける、という選択肢が、彼女とはじめて基地内で顔を合わせてから、当たり前だった。うわっ、いたっ、とテンションが上がるときもあれば、ああ、いるなぁ、となんだかしみじみ思うときもある。今日はわりと後者だった。特にこれといった理由はないが。
「つつみんと観戦するんじゃなかったの?」
「あ? ……いや?」
彼女は観戦席を見下げて、
「ふーん? 誰か、探してるように見えたから」
同じように見下ろせば、先に行っていると連絡してきた人物を探すように周りをうかがっている堤がいた。
「あー、はいはい、堤が探してるのは、俺」
優先順位を誤るべからず、と暗に日頃のことも忠告しているであろう言葉を無視し、ポケットに手を入れる。ライターを探り当てる前に、彼女がカウンターに転がしていたライターを取ってヤスリを擦り、腕を伸ばす。上半身を倒してくわえていた煙草に火を移した。
「上に来てもらったら?」
「そーっすね」
ライターの代わりにスマホを掴んで、メッセージアプリの履歴の一番上をタップする。
彼女とは一般職員と防衛隊員、先輩と後輩、どちらに当てはめても良好な関係を築いていると思う。俺がいたずらに敵をつくらないように振る舞うのと同様、彼女もそうだからだ。分け隔てなくフラットに接するが、仕事の話をするときは敬語。俺はそこまで仕事とプライベートをわけないことでその安定に努めているが、手段が異なるだけで目的は同じことだ。
「で、なんなんすか? Dって」
うん? と彼女は首を傾げたが、先刻仕舞った健康診断の用紙が盗み見られたということに、すぐに思い当たったらしい。
「いやいや、いたって健康体だよ」
「Dは健康ではないだろ」
「具体的な数値は差し控えるが、体重が軽すぎてD判定です」
低体重だってよ。わたしゃ赤子か! 何ヶ月検診だよ! と天を仰いでいる。
「言われてみりゃ、痩せ……ました?」
「おーい! わからんのかい!」
「こう、ちょくちょく会ってっとわかんねーもんっすよ」
「会ったときにかならず抱きしめたら、わかるようになるんじゃない?」
ハグハグ〜、と両手を広げて揺らしているのを見下げながら煙を吐き出す。まるで一度はそうしたことがあるような言い方をするが、正面から抱きしめたことなど断じてない。やったとて、肩を引き寄せるくらいだ。彼女も俺を押し返すことなく、そのまま俺の肩に頭を預けて煙草をふかしていた。先々週の飲み会だ。たしかに、うっすい肩だな、とは思ったが、それがはじめてだったのだから、比較対象がない。
「誤魔化すな」
カナダ人でもあるまいし。本当にその腕の間に俺が滑り込んだらどうするつもりなんだ。どっちつかず、どちらにでも簡単に秤が傾きそうな関係性に甘えている自覚はある。今の言動が示すように、彼女も同じだろう。
「そういうレベルの話だから問題ないってこと」
当の本人も痩せたなんて気がつかなかったくらいだから。標準がわたしにとってのベストとは限らない。膝に両手をついて彼女は立ち上がる。向かう先は灰皿の横だとわかっているので、俺もその背中を追う。
「食べてねーんすか?」
「あのね、めんどくさいの域を超えてんのよ。苦行よ、料理は」
コンビニのお弁当も飽きちゃうし、平日はまあ、食べなくてもいいかなあ、みたいな気持ちになりがち。そう言って、煙草で灰皿の縁を叩く。
「食堂で食えば?」
「お昼はお世話になってるよ」
会場へ目を落としながら、最近はもっぱらB定食〜。とお気に入りのメニューをつぶやく。ガラスの向こうを覗き込もうと、フラットシューズのつま先がひしゃげている。
「つつみん、席座ってるよ。連絡した?」
「した」
あっそう。と、興味があるのかないのかわからない声色で相槌をうつと、身体の重心を元に戻して、また煙草をくわえた。
連絡はした。嘘ではない。だが、上にいるから来いとは書かなかった。仮にそう言ったとしてもアイツは気を遣って来ないだろう。そういう扱いを受けはじめている、ということを薄々理解はしていた。そもそも、そのステータスを長年かけて求めていたという節は、否めなかった。彼女のほうは迷惑しているのかもわからないが、こうしてこの場を離れないことが答えだとして、楽観的に受け取っておく。
「まず、帰ってすぐ煙草吸うのはやめといたほうがいいっすよ。食欲減退の元」
しつこいねぇ、と彼女はわりと本気で苛立って煙を逃す。眉間に寄せた皺が深い。
「そんなに言うなら、洸太郎がつくって」
「……まあ、べつに、簡単なのでよければいいっすけど」
拒否されると考えていたであろう彼女は、え、と言ったきり次の言葉を探していた。俺が昼に出てくるときにタッパーにでも詰めて持たせたらいいだろう。炒めもんくらいならそれなりの味は保証できる。人事部にも冷蔵庫はあるはずだ。保冷剤でもつけとけばさらに安心か。
「……じゃあ、ホットケーキ」
「バカか。夜にホットケーキ食うやつがどこにいんだよ。栄養もねーし」
「朝だよ」
「……あぁ?」
ホットケーキを食べるのは夜ではなく朝だ、と言っているのはわかっているが、食い気味な言葉の意図をはかりかねていた。それでも、希望的に思い浮かべられた、カーテンの隙間からのぞく光がまぶしくて、フィルター越しに大きく息を吸い込む。
「……朝に、つくってよ」
軽率なことを言うんじゃねえよと、詰め寄りたかった。
はじめてしまえば、終わってしまうかもしれない。はじめなければ、終わらないのに。でも、逸らされないまなざしは、そのときすらも見据えているようにうつる。
枕にされた腕をそっと引き抜こうとすれば、身体にまわされていた腕に少し力が入る。頭を何度か撫でると解放されて、ベッドを抜け出しキッチンに立つ。焼き上がるタイミングを見計らったかのように、フローリングを裸足で歩く音が背中に届く。そうして振り返る先の、重たいまぶたを擦って不機嫌そうな顔に、笑いかける。
無責任な独占欲だけではこんな夢はもちろん、現状維持すら叶わない。据え膳までされて、浅はかなのはよっぽど俺のほうだった。
短くなった煙草を灰皿に押し付ける。ランク戦の開始を告げるアナウンスが鳴り響いた。