ドンガラガッシャーンなんて擬音があるけれど、まあまあ似たような音だったと思う。いや? たくさんのものが落ちたわけではないから、ドンガラの部分はちがうかも。ドガシャーン!!! ってところかな?
オフィスの休憩室。床に置いてある、ドリンクサーバーの位置にいちばん近い水のタンクを引きずって、下部の扉を開いて、空のタンクを引っこ抜いて、新しいのを端にぎりぎり乗せてそのまま勢いで押し込めばなんとかなると思ったのが間違いだった。端っこだけに数キロの負荷が一気にかかったサーバーはバランスがくずれ、台座から折れた鉄の塊が傾き、わたしに容赦なく覆いかぶさって来たのだ。
天井を仰ぎながらぐっと両腕に力を入れてわたしの下半身の動きを制限している機械をどかそうと試みるが、思ったように動いてくれない。じりじり動いていけばそのうち抜け出せるだろうとは思う。
有給を木金と取ったから仕事が溜まっていた。勝手に休んで勝手に忙しくしているとはいえ、月曜から始発に乗って出勤することはほめられたい。ブラック企業と名高い弊社とはいえ、月曜早朝五時に人はいないのだ。
サーバーの液晶に毎度表示されていたグッドデザイン賞受賞の文字を思い出して辟易とする。あんな賞、金さえ払えばもらえるんだ。デザインなんてどうでもいいから、安全性に力を入れてほしい。
と、ここまでの思考時間は一分といったところか。ぱたりぱたりと靴がカーペットを叩く音がオフィスフロアからしている。人だ! どこにいたんだ!? 今来たのか!?
その足音は想定通り休憩室へ続く扉に近づいてきて止まる。
「えっ、ちょっ、ど、したんだよっ!?」
目線だけをうつしてその人物を確認する。目をぱちくりと、手をぱたぱたと動かしながら彼はこの状況をなんとか理解しようと必死な様子だった。どうしたもなにも、見たままなのだが。
「観音坂、いたの」
「デスクで寝てた……」
たしかにすごい音だったけど、まさかこんなことになってるなんて、と観音坂は目をこする。
日曜も出社していて、そのまま寝ていたということだろうか。それともわたしより早く、電車が動く前から出社していたのだろうか。どちらもあり得そうな話なところが、観音坂の器量と上司運がすこぶる悪いことを物語っている。それならば、わたしがオフィスの電気をつけたときに起きて欲しかった。そしたらこんなことにはなっていない。
そもそもわたしは水を替えるなんて重労働をしたことがなかったのだ。いつも、他の社員に頼むから。男に。いくら女がえらかろうと身体能力が強化されるわけではない。男だって頼られてうれしくないことはないものなのだ。それに、ほんとうにわたしは持ち上げられないのだから頼らせていただきたい。華奢なわたしには持てないわ、と嘘をついて可愛こぶってるわけではない。依頼の方法をちょっとだけ可愛こぶっているだけだ。
「とりあえずこれ、どけてもらえないかな?」
「そ、そうだよな」
非力そうにみえる観音坂ですらこんなものはひょいと持ち上げてしまう───きゅん───とはいかなかったが、なんとかサーバーは持ち上げてくれて脱出成功。よいしょ、と掛け声をかけて立ち上がる。両手で膝丈のスカートを叩いて、屈伸をしてみる。皮膚にはじんわりとした感覚があったが、骨まで折れるということはなかったらしい。
「怪我は……」
「……まあ、大丈夫かな?」
してたら労災認定されるかな。うんと伸びをしながら笑えば観音坂もやっと険しい表情をくずした。
「いつもみたいに誰かに……いや、頼める人がいなかったからやったんだよな……」
「うん。なくなったのに替えなかったと思われたくなかったから」
観音坂に背を向け、テーブルに置いていて無事だったお気に入りのマグカップを両手でつつむ。
とりあえず人事総務にごめんなさいして、業者に電話してもらって。そこから修理してもらうだろうから、エレベーターフロアの自動販売機にお世話になるしかない。二本買って、一本は観音坂へのお礼にしよう。
「さんさ、」
「ん?」
「いや……人のいない今だから、言いたいことが、あるんだけど」
なによ改まって、とふりかえれば、また観音坂は眉間に皺を寄せている。まさか期待はしていなかったが、この表情から察するに愛の告白ではないらしい。
「その……不倫してる、って噂が………」
続きを催促すればおずおずと観音坂は消え入りそうな声でその噂について説明した。
上司と仲がよすぎる。ふたりで食事をしているところを見た。タクシーに乗っているところを見た。会社の飲み会のときよからぬ空気を感じる。実力より評価されすぎではないか。うんぬん、かんぬん。
「いやっ、さんがそんなことするわけないよな! さん、仕事もできるし、かわいいし、妬まれやすいっていうか……」
べつにみんな本気で言ってるわけじゃないからな!
肯定も否定もせず黙っているわたしに観音坂は雪崩のようにことばをかけ続けた。
本気で言っているわけでない、と観音坂がほんとうに信じているのであればわたしにそれを伝える必要はないのではないだろうか。だから、観音坂はうそをついている。みんな疑ってるぞ、気をつけろよ。そう、忠告したいのだ。
「ご親切にどーも。でも、事実だよ」
案の定、観音坂はえっとかうそっとか、驚く声をあげなかった。ぴくりと眉と口が動いたのはわたしがあっさりそれを認めるのを想像していなかったからというだけだろう。言い逃げされるのも癪だった。
火のないところに煙はたたない。わたしは彼の出張に合わせて二日間有給を取った。これが致命的だったのだろう。まあ、わたしも軽く考えすぎていたところはあった。甘かった。そこは反省しよう。
「本当だったよってみんなに言ってくれてもいいよ」
「えっ!?」
「さぁて、昔ならわたしが辞めさせられてたんだろうけど、今はどっちになんのかな?」
きっかけはささいなことだった。取るに足らない、この世界中でどこにでも転がっているようなはじまり。べつに、彼の家庭を壊したいわけではないし、わたしはそれを望んでいない。それでも、彼が生涯の伴侶として選んだ女ではなく、わたしに時間や感情を割いている事実を、わたしはかけがえのないもののように感じている。
その代償として職を失ったりするというのは見合っているかと問われれば微妙なラインだ。第三者から見れば馬鹿げていると思われることだろう。
そうだとわかっていても、いちど経験してしまったことをなかったことにできるほど、わたしは器用に割り切れるタイプではなかった。
「……さんが傷ついてないなら、いいんだ」
いつのまにか観音坂は、めずらしく伏し目がちな目をあげてわたしと目線をしっかりと合わせていた。そのことにわたしはすこし驚いて、目を見開く。自分の額に皺が寄る動きを感じた。
わたしが何に傷つくというのだろう? バカなことを言うものだ。わたしがおぼえているのは優越感だ。
わたしに背を向けてスマホを耳に押し付ける背中。スマホの背景で笑っている子どもの写真。呼び間違えを防ぐために口に出されたことのないわたしの下の名前。───そんなものはわたしが5秒目をつぶればすうっと消えていくはずの光景で、ごはん粒をいくつか飲み込めばとれる、喉にささった魚の小骨のような、ほんのちいさなひっかかり。
観音坂の瞳にはわたしの薄ら笑いがうつっているのだろう。観音坂、と呼びかけてことばを続けようとしている間に、ごめんだとかしゃしゃりすぎたとか大きなお世話だよなとかなんとか、観音坂は慌てふためきはじめた。
「……やっぱり、痛い」
そんな観音坂に構わず声を漏らせば、えっ、とわたしの足元を見ながら、病院へ行くかと騒ぎだす観音坂の数秒前の静かな見透かすような眼差しは思い過ごしだったのかと思わされる。
観音坂の背後で無惨に転がっているウォーターサーバーの残骸が、わたしたちの混乱や困惑を具現化しているようで、ほんのすこしだけ、笑えた。