愛の仕業
長机にのせていたスマートフォンがわずかに板をゆらした。リスケにリスケを重ね土曜日の朝一番に設定されたミーティングが本日のメインイベントだった。ぞろぞろと退出していく面々を横目に送り出したのはもう一時間は前のこと。とくに移動する必要性を感じず、そのまま会議室で雑務を片付けていた。メッセージアプリの通知かと画面を目視すれば、着信一件。端末を取り上げてスワイプし、表示された見慣れた名前に倦怠や不安、使命や苛立ちといった類のものが絡み合った、形容しがたい感情が胸に湧く。逃がすように息をはく。それらを総称する名をつけようとすることは随分と前から放棄していた。ラベリングしたところで、何の役にも立たない。見つけやすくする必要がなかった。複雑だろうとなんだろうと、その感情は特定の人物にしか抱かないものだからだ。
広げていた書類を鞄に、スマートフォンをジャケットのポケットに仕舞う。とくに会話するわけでもなく、同じように居残っていた人事部の女が落とした顔を上げずに伸ばす労い声に、同じ声を返して自動ドアをくぐった。
玄関のチャイムを鳴らせば、インターホンでのやりとりをショートカットして扉が開いた。不用心だ。そしてそれは、俺がかならずこうしてやって来るという信頼に似て非なる思い込みから生じている。
「…………ごめん」
メイクで隠されていない目の下のクマがさめざめとしている。もはや何に対しての謝罪なのかは候補がありすぎたが、醸し出される疲労感の原因にもいくらか見当はついた。オートロックのないアパートの1SDK。リフォームされていて、内装は外観からは想像できないほど綺麗だ。
「だから言っただろう」
「……まぁ、ちょっと疲れたな……」
昔馴染みの女はへらりと正気のない表情を強引に緩めて、つっかけていたサンダルからルームシューズに履き替えて歩き出す。俺はこの女がさまざまな理由により年に一度か二度ほどの頻度でつくるこの顔が、嫌いだった。
「彼氏はどうした」
靴紐の先をかがんで引っ張り、端にハの字に転がっていたスリッパに勝手に履き替えた。狭いダイニングを通過した女は、部屋に続くドアを開けている。
就職を機に一人暮らしをするのだと報告されたときには拍子抜けした。実家を離れるにしても、彼氏の家にでも転がり込むのだとばかり考えていたからだった。慣れない環境のなかでの一人での生活のスタートは無理がある。通える距離だろう。そう、考えを改めるよう助言したのは他でもない俺だった。家賃手当も出るし、少しでも会社に近いほうがいいじゃんか。と食い下がった女は、今まさにその選択を悔いているに違いない。
「……生きてるよ」
これみよがしにつかれたため息に、こちらは顔をしかめたくなる。シングルベッドのマットレスに腰をおろした女は、茶の一つも出す気はないらしい。引き戸の前に突っ立ったままの男には着席も促されない。
「そういうことじゃない。相手を間違えるなということだ」
「……遠くにいる恋人に、何を求めれば?」
勘弁してくれ、とこちらを見上げる顔に書いてあった。額面どおりに受け取ったとして、遠距離になったなど、初耳だった。気持ちという意味で離れたというのなら、これははじめてのことではなかった。いずれにしてもここで彼氏について追及すれば、さらにややこしいことになるのは火を見るより明らか。
「まずは、少し寝ろ」
大抵のことは寝れば解決し、大抵のことは寝不足が諸悪の根源だ。眠れないから困っているのだということはわかっていたが、俺にできる提案といったらそれくらいしかない。布団に手をかける女の目は、そこにいろよ、言わずともいるよな、と声を発さず訴えかけている。ベッドの縁に背もたれが面している一人掛けのリクライニングソファに陣取り、鞄からタブレットを引っ張り出してKindleのアプリをタップした。
背後から規則正しい寝息が聞こえはじめてから暫くして、玄関ドアに磁石付きのクリップで引っ掛けられていた鍵を持って部屋を出た。そうする前に開けた冷蔵庫の中身はマヨネーズとケチャップのディスペンサー、二リットルペットボトルのミネラルウォーター、それにほとんど干からびた大葉だけが居座っていて、想像していた以上の有様だった。冷凍庫にはラップにくるまれたご飯が三つ。一応、自炊をしようという意気込みはあったらしい。たしかにキッチンには相応の道具や調味料が揃っていた。
ツナ缶のオイルだけをフライパンに流し込み、熱する。一口サイズにカットした鶏肉、みじん切りに近くした玉葱をまな板から落とした。塩胡椒をふり、色と形状が変化してからツナと解凍していた米をすべて投入。一部生き残っていた大葉も混ぜた。ケチャップは目分量で色合い重視だ。卵もきちんと布団にしたかったが、生憎フライパンはひとつしかない。耐熱らしい容器に卵と砂糖を大匙1だけ入れて、菜箸で溶く。電子レンジに放り込んで、二十秒で様子を確認。数回混ぜて、追加で五十秒設定する。グレーの平たい皿二枚にそれぞれチキンライスを固めて、片方にだけ少し緩い卵を広げた。
「……眠れたか」
もういちど卵を割ってレンジを稼働するか否か迷っていたところで、起床の気配がした。ゆっくりと開かれた引き戸の先からこちらを覗いている。眠っているあいだに出て行ったのか、という抗議だ。
「何か食べろ」
「何かって……オムライス指定じゃん」
ダイニングテーブルにのせられた皿に目をやって、わざわざこんなことを、という呆れと安堵の色。俺も大概だが、さまざまな感情を抱いているのは、おたがいさまだと承知だ。
「……大丈夫だ」
「……何が」
無責任なことを言うなと、その目が絶望的に語っていた。この女はそれ以外、俺に何の言葉を求めるというのだろうか。
椅子の上に放っていたレジ袋から、キリン、ゾウ、パンダ、コアラ、イヌ、ネコ。幼稚園児や小学生が食べるお弁当に使用されるであろうシールを取り出す。パッケージを破り、迷いなく一枚を剥がして、キッチンの隅に置いてあった爪楊枝に巻きつけた。
白と黒の配色を入れ替えたら全然かわいくないはずだ。みんな騙されていると、ネットの記事を発端に、至極どうでもよいことで言い争ったことがあった。幼少期ではない、中学生の頃だ。馬鹿げている。そんなことをいつまでも記憶に残していて、レジ横に吊り下げられているのを見て、ふと思い出したのだということをこうして伝えたくなることも。
「何度かつくったことはある。味は、大丈夫だ」
頭に笹の葉をのせた間抜けなその顔を卵の上から突き刺す。向かいの椅子を引いて大人しく座っている女のほうへ、それを押しやった。
「……ありがと」
今にも塩加減を変えられてしまいそうな光の集まる瞳は見なかったことにするべきだ。俺が見ていいものではない。見るべきものではないだろう。思考に目隠しするように、ゴミ箱に放り込んだ、死んだ葉たちのことを考える。一般論の対義語に答えはなく、正当化するのは難儀だった。シリコンのカバーが脚先につけられた椅子は、滑りが悪い。