ティファニーで朝食を
二歳になる姪がいる。兄の嫁には結婚式以来会っておらず、兄にも同じだけ会っていなかった。つまり、姪の顔を直接見たことはない。「今がいっちゃんかわいいねんから!」と、もう四年もかわいいかわいいと言い続けている姪をもつ先輩であるマリオのしつこいかつ信ぴょう性に欠ける助言に渋々従い、三連休の前日、蔵内、荒船、マリオとの関西
通話を終えたその指でビジネスホテルを探しながら本部基地の廊下を歩いていれば、すれ違いざまに風間さんが俺を呼び止める。案の定今度の出張の話になり、前乗りするのだと言えば「ホテルに泊まるなら経費で落としていいぞ」と、まるで俺が実家にも兄の家にも泊まらないことが見えていたかのように、片手を上げた。
中之島で泊まったホテルの朝食が超よかったんだけど、と出張帰りの人事部の女がわざわざ生駒隊まで共感を得たかったのか報告に来たことがあった。地元の人間はホテルに泊まらないし、当時お小遣いでそんな場所へ行けるわけもなかったので皆知る由もなく、「自分、朝食べるんや。意外」「いつもは食べないけどね」「彼氏と泊まったんすか!?」「話聞いてた? 出張! 仕事!」なんてやりとりしかできなかった。ふと、そのことを思い出し人事部の女が言っていたホテルを検索すれば、連休前というのに運良く一部屋空いている。朝食つき。クレジットカードの番号を入力する。経費ならばもはや値段はどうでもよかった。
流れてくるタスクをスルーせず受け取っていれば指定席の予約時間には到底間に合わない状態になっていた。並びの席を取っていたマリオの、そうなってもいいと思ってテキトーなことしてたんやろ、という意図が包括された呆れ声を背に受け送り出し、夕方五時前、自由席に滑り込んだ。この時間帯でなければ大量に人が降りていく京都を過ぎて新大阪。新幹線の改札口で待っていたのはかろうじて顔を覚えていた義理の姉だった。姪は自宅マンションで留守番しているという。果たして二歳にそれが務まるのかどうかというのは、子を持たない俺にもわかりきっている。
義姉の運転する自家用車でホテルに寄ってもらいチェックインを済ませ、荷物を預けた。身軽になってから改めて向かったマンションの十二階の角部屋。義姉はキーを出すことなく玄関のドアを引いた。案の定、室内には生活音があり、姪と、しかし兄ではなく、義姉と同世代らしい女がいた。ソファに身を預けていた女は俺の顔を見て、一時停止。少し背骨をまっすぐに戻して、はじめまして、と頭を下げる。ふたたび視線が交わったのは顔を上げた一瞬で、すぐさま姪が口に入れようとしているレゴブロックを引き離すことに躍起になっていた。
新幹線ホームの売店で購入したみかん最中の入った紙袋を義姉に差し出すと、やったね、とさっそく包装紙を破ってひとつを女に渡した。個包装を剥がして最中を口に放り込み、冷蔵庫の中身を取り出しキッチンに立つ義姉に手伝いを形式的に申し出れば、ピーラーを手渡される。ジャガイモと人参の皮を、フットペダルを踏み込んだままゴミ箱の上で削ぎ落とす。ケトルで湯を沸かして糸こんにゃくのアク抜き。ゆで卵の殻を剥き、ボウルに入れて親の仇のように潰す。等。本気で遠慮なくこき使われた。俺は家族とはいえ、客やろ。ため息を押し殺してリビングに目をやれば、もうひとりの客はスーツのスカートが皺になるのを気にしない様子で、膝に姪を乗せながらスマートフォンを弄っていた。義姉は女について、自分の大学時代からの友人であること以外の説明をしなかった。説明したくないわけではなく、義姉はとにかくそういう女なのだ。
深い青色の大皿にこんもり盛り付けられた肉じゃが、タルタルソースの添えられた鮭のムニエル、切り干し大根と豆腐の味噌汁、そして明太子が食卓に並んだ。俺が並べた。俺と義姉と姪の三人と共にダイニングテーブルを囲んだ女は、ありがとうといただきますを俺と義姉の目をしっかりと見て述べ、姪の食事を介助するわけでもなく、それは俺にバトンタッチして、ただ食事を楽しんでいた。今日も上司がああでこうで、困った。そういえば昨日の夜ニュースで見た事件、今日にはこうなってたよ。云々。とくに積もる話というものはないようで、女はいつもこうしているのかもしれないというほとんど確信に近いものがあった。時折俺に振られる話を失礼のない程度に打ち返し、義姉が最近ハマっているというアーティストが生演奏をしているテレビ番組を見終わっても、姪の長すぎる食事が強制終了されてもなお、兄は帰宅せず。女がそろそろ帰るね、と席を立つので、俺も一緒に出ることにした。別に兄に会いに来たわけではない。姪の顔を見るという目的は達成されていたからだ。義姉のタクシーを呼ぶかという声を断り、スニーカーに足を突っ込んだ。
「おかしいよね」
エントランスの自動ドアが開く。女はフラットシューズをぺたぺたと鳴らしながら笑った。といっても本人は特別奇妙な時間だとは思っていないようだった。きみから見れば異常だよね、という意味だ。
「でも、ああいった食事のスタイルを提案したのは、きみのお兄さんのお嫁さんのほうだよ」
「どっちかと言うと自分やなくて、あの人の嫁がおかしいんやろ」
「わたしも旦那さんの弟さんが来るなんて知らなかったからね」
ちゃんと行くって伝えてから行ったんだから。なにも言われなかったのよ。
なんとなく、この女はそこまで非常識、というか、突拍子もないことをするタイプではないだろうと思っていたので、納得だった。ひとりだと食事が疎かになるから、平日三日間、多いときは最大五日間、仕事終わりに兄の家に足を運び、一緒に夜ご飯を食べているという。当然、その場に兄がいることもあるそうだ。食材費+五百円+調理中の子どもの世話。それと引き換えに出来立ての料理を提供してもらっていると女は有難そうに微笑む。あまりにも利益がなくて、義姉には商売の才はないようだった。
「義弟より、自分優先やん」
「妬かないでよね。あの子連れて外食はしんどいだろうし、いつもより豪華だったよ」
普段なら、明太子はないね。
別に俺、明太子好きちゃうし、と思いながら、肉じゃがか鮭がないわけやないんやな。と、義姉の献身的な姿に感心した。
「さみしいし、一緒に食べとるんですか」
「まあ、それもそうよ。わたしはひとりがよくてひとりでいるわけじゃないもの」
隣を歩く女はとくに表情を揺らすことはない。さみしいということをあっさりと肯定する人間は、さほどさみしくはないのではないだろうか。とりわけ大人がそれを認めるのはハードルの高いことのように思う。
「実家にでも帰ったらええやないですか」
「まあね。でもほら、遠くの親戚より近くの他人って言うでしょ」
きみもそれが理解できるタイプでは?
家族は心の隙間をかならずしも埋める存在ではない。そもそも、その空白をこじ開けたのが家族だというケースもある。そのことに思い当たらない人間は幸せだろう。女にそんなバックグラウンドがあるかどうかはさておき、血縁者に対する価値観や重要度は俺とそう変わらないようだ。それでもきっと、俺たちは血のつながりのある人間を失くせば、悲しむ。完全に崩壊している家庭ではないから。健全な家族関係を築いている人たちと同じように、なんらかの形で後悔をする。ほとんど確定事項だ。だからといって今、積極的に関わりたくはないのだ。そんな潔さを女からも同等に感じている。
「近くにおったら飯くらいなんぼでも付き合うてあげるのに、残念ですわ」
「よく言うよ。きみは誘っても絶対五回に四回は断るね」
「おお。自分の想像の中の俺は、一回は付き合うてあげるんかぁ」
「そ。渋々ね」
やけに解像度が高く描かれた自身の姿に笑い、同時になぜかそれを否定したくもなる。大通りのアスファルトをタイヤが擦り上げて車が行き交う。女は歩道の端に寄り、遠くに目を細めた。まさか毎度タクシーでマンションへ通っているわけではないのだろうし、女もそれに乗る可能性は低い。すう、と女の片腕が伸びる。
「……自分は俺に誘われたら、絶対断らんの?」
手を上げたまま振り返った女は、眉を下げた。遠くの親戚でも近くの他人でもない俺にだからこそ言える誘い文句は頭の片隅にあった。ただ、口に出すかどうかは迷っていた。日々一瞬訪れる孤独を、現状うまく手懐ける術をもっている女の迷惑にはなりたくないと思ったのだ。そんなことを異性との関係のために案じ、躊躇ったことは記憶にある限り今までないことだった。
確証に足らない、疑う余地しかない双方の好意の切れ端がふたりのあいだを泳ぐ。相手の真意をはかりかねていて、近づいて、離れた後の隙間だけをすでに想像していた。空白をもってしまった、つくってしまった他人からその怖れの存在を感じたことはあったが、俺はいつも意に介さなかった。俺にそれが生じることはなかったからだ。
「……これっきりなら、いらないよ」
そうして嫌でも気がつく。彼女のためではなく、自分のために輪郭をはっきりさせたいのだと。これまでのように割り切れる相手ではないのだと、どうしてか、どうしても、わかってしまっている。新たな手を長考する時間はない。こちらへ向かって来るイエローに塗装された車のウィンカーが、一定の点滅をはじめていた。