第二便
涙に閃光が反射して散る。水滴は膨れあがって細長いビル群に姿を変え、意思をもっているかのようにうねったかと思えば途端に爆ぜた。瓦礫は波のように人の生活に押し寄せる。容赦はなく、目についたものをすべて飲み込むようにしてすべては真っ黒な砂利と化す。人々はそれを黒い砂浜といつからか呼び、文化財保護法のもと保存されるに至る――。
遮光カーテンを開くと、ひらけた海岸線からのぼってくる朝日には雲ひとつかかっていなかった。真っ白にかがやく珊瑚礁の砂浜は感傷に浸れそうなほど美しい。
世界遺産に登録されたって不思議ではないその風景を見ているというのに気分はすぐれなかった。アルコールの未分解や風邪といった体の機能的な話ではなく、夢見がすこぶる悪かったことが問題であるのは言うまでもない。ああいったタイプの夢が引き起こされた原因に、思い当たる節がしっかりあるのがまだ救われる。無駄にリアリティあふれる法律部分に関しては笑いどころでもあった。
朝食会場に向かったものの固形物を摂る気にはならず、コーヒーをテイクアウトカップで淹れた。
コーヒーメーカーの横まで、昨日のチェックインのときと同じフロントの女が小走りで駆け寄って来て、航空会社から依頼のあった配車は済んでおり十分後には到着する旨をひと息に伝える。わざわざご足労いただきどうも、と皮肉を添える間もなく、昨晩はだれか島の人間に案内してもらったのか、と問われて瞬時に考えをめぐらせた。
この島でおすすめのお店はどこなのかと逆に問いかけて歩きはじめれば、案の定、女は知った店の名前を口にした。他人が想定どおりに動くことには些細な優越感こそ覚えるものの、攻略本を読みながらプレイするゲームのようだ。
正面玄関前まで当然のようについて来た女はひとしきりあの店がいかに混雑していて予約が取れないか、だから別の店を教える、今日の夜はどうするのか、といったことを話していたが、五分前行動のタクシーに救助されことなきを得た。
整備士を乗せたプロペラ機は着陸するやいなや、昨日立ち往生させてしまった乗客たちとCAを乗せて飛び立って行った。機体を確認したところ、部品は持ってきたもので足りそうだということで、この空港には大きな修理ができる設備がないので、その場にいた全員が修理の目処が立ったことに安堵した。午後五時にテストフライトを行なうことになった。問題なければ明朝、フェリーフライトで本島へと戻ることになる。
作業が終わったころにはさすがに空腹感を覚え、空港食堂に立ち寄った。鶏肉やしいたけ、卵焼きなどをごはんに並べて鶏ガラのスープをかけて食べるお茶漬けのようなこのあたりの地域の名物をオーダーしてすする。完食目前のところで食堂の暖簾をくぐったGSの子に昨日の代打の礼を言われた。続けて感想を聞かれるのだろうと身構えたものの、矢継ぎ早に、今日の夜に手荷物検査で没収した手持ち花火をみんなで処分するから来ないかと誘われ、拍子抜けした。この島の移住組女性陣は畳み掛けるように喋る傾向があるのかもしれない。いや、あの子はそんなことはなかったか。
昨日より気温が高くからりとは乾いてくれない湿った空気と太陽が半袖のカッターシャツから出ている腕をじりじりと刺している。
空港から歩いて五分ほどの位置にある観光案内所は平屋だった。真四角のコンクリートがどん、と無造作に置かれているように見える建物の自動ドアの前に立ってしまった理由はいくつかあるようにも思えたし、そんな複雑なことでもないようにも思えた。
メンテナンス不良をアピールするように鈍い音を立ててドアが開いた。入ってすぐ右手側、病院に設置されていそうなソファに腰掛けて雑誌を開いていた中年女性が顔をあげて、どうもお、と歯を見せた。同じ挨拶を返そうと口を開きかけたところで、正面のカウンターの奥、扉の向こうからくぐもった声が聞こえた。言い争うような語気の強い音に思わず顔を見合わせる。
女性は奥に続いているであろう、声の出どころである事務所に聞こえるか聞こえないかくらいの声量で客が来ていることを告げた。どうやら彼女は観光協会の人間でもなければ、お客さんでもないらしい。
じっとカウンターの奥の空気に神経を集中させる。会話は聞こえなくなったけど、これといったあからさまな反応はなく、ひとまずおれもソファに腰を下ろすことにした。
あの子が出てくるという都合のよいことを願っているようで、相反することも考えていた。
観光協会に勤めているわけではないと言っていたことは覚えている。それでもこの小さな島のなかで、残り一日もない時間で、また邂逅するのかどうかそわそわするくらいなら、こちらからアクションをとったほうがいくらかマシな気がした。
ホテルスタッフの女性に余計なひと言を言わないことを意識しているのは、彼女に対して否定的な感情をもっているからだ。でも、今後も出会う可能性がある。だから、考えるわけだ。
ではあの子はどうなのか。
この後の人生において彼女と再会することがあるかどうか、なんて打算的なことを考えてまで接したつもりはなかった。生きている限りふたたび彼女と出会う可能性はゼロではない――などと規模の大きなことが言いたいわけではなく、自分が飛ばしているプロペラ機がたどり着く場所に彼女が暮らしているから、可能性は高いほうだろう。
初見でどう接するべきかを考えなくてはならないような感想をもたなかったというのが正しい。どちらかと言うと、自分が今どう彼女に接したいか、という気持ちのままに話をしたように思う。
だからこそ、アルコールも入って余計な情報を口にした。それ自体はこの際構わないし、とりわけおかしなことだとも人によっては捉えられないだろう。問題だと言うのなら、おれがうっかり(というよりはより確信的なほんの出来心があった)口を滑らせた結果、察しがよく共感力の高い彼女に、彼女自身の情報を不本意そうに口に出させてしまったということだ。
だから、おれがおれのために言い訳のターンを用意したいわけではなく、彼女にその選択肢をあげたかった。
おれはおれだけが、おれの周りだけが、ボーダーにいた人間だけが、あのとき三門市にいた人間だけが被害者なのだと、傷を負っているのだと、いまだに、たまに錯覚する。それが昨晩だったのだ。
きぃ、とドアが開いて身構える。カウンターの奥から出てきたのは恰幅のよい真っ赤な生地に白い葉っぱの模様が複数入ったシャツを着た中年男性と、警察の制服を着た長身の若い男性だった。おれは思わず息をもらす。
赤シャツの男性はおれのとなりにいる中年女性が口を開くと、軽快なおしゃべりをはじめた。本島で聞く方言を理解できていないのでここの方言がそれと同じなのかも似ているのかもわからないが、とにかく同じ日本語話者とは思えない言語を使っている。
「あ」声のしたほうに視線をやると「どうも」と待っていた女が会釈をした。
言語解読に意識を奪われて捕捉するのが遅れたらしい。昨日もらった(正確に言えば勝手に引っこ抜いた)観光協会のパンフレットを振って足を止めさせる。
「もしかして、わたしに用事なの」
「そういうことになるかな」
「あれ……わたしはここに勤務しているわけではないって言わなかったっけ」
「結果オーライじゃん?」
島案内するんやったら車使ってええぞお、と観光協会の人らしい赤シャツのおじさんの声に彼女は頭を振る。いいから連れて行きなよお、とおじさんは譲らない。彼女は、そうおじさんは言っていますが? いかがいたしますか? と決断をこちらに委ねるようにして眉をしかめこちらを伺う。ひどく迷惑そうな表情をつくっているのがわざとらしくてかわいい。小さな島だ、あまり男女で親しくしているように見えると厄介なこともあるのだろう。
「まあ観光案内所だしね?」
「たいていの場合、案内所の人自ら連れ立って案内はしないのよ。ツアーガイドじゃないんだから」
じゃあ借りますね、と彼女はスマートフォンをいじりはじめる。
「ありがたいけど、仕事は? 仕事ないの?」
「なんか違う意図にも聞こえるんだけど」
「他意はないよ」
「そうかなあ」
下げていた視線を上げて端末を右耳に当てる。どこかへ電話をかけているようだ。
「シュノーケリングしたことある?」
「ない」
「だと思った。じゃあ、しましょう」
あっもしもし、と彼女はおれと話すのと地続きのテンションで電話口の人物と話しはじめた。それがおそらくシュノーケリングなどのマリンスポーツのインストラクターであることを瞬間的に悟った。
「夕方には空港戻るんだけど」
小声でアピールしたおれにたいしてスマートフォンを手で伏せることもせず
「そんなに長居しないよ。まだちょっと水温低いし」
「水着ないんだけど」
「あ、嫌なんだ? 泳ぐの? 泳げないんだ?」
「嫌とかじゃないし、人並みに泳げるけど」
「着衣水泳でいいけど、それ制服だよね」
うん、と肯定すると、男性用水着の持参をお願いしている。
「自分は着替えあるの?」
「わたし? わたしも入るの?」
「逆に煽っといてなんで入らないつもりだったの」
えーっ? と不服そうに声を上げてから、じゃあわたしも入るかー、とおれにもインストラクターにも宣言しながら彼女はまたカウンターの奥に消えた。一分も経たずにふたたびドアが開けられた先では、スマートフォンの代わりに無造作に畳まれたグレーのタオル生地のワンピースと車のキーが握られていた。勤めていないのに着替えはここにあるらしい。こうして突発的に海に行くことはここではよくあることなのかもしれない。
じゃあ行こう、とおれの横を通り過ぎた彼女に反応してヴェイーン、と愉快な音を立ててドアが開く。おれがここへ来るときに通った道とは反対の道を進んでいる。数メートル先に駐車場らしき空間があり、ちょうどパトカーが出て行こうとしているところだった。
「そういえば、なにかトラブルだった?」
まわりに人気がないことを確認してから問いかけた。怒鳴っているような声が聞こえたから、とは付け足さなかった。はい、トラブってました、と肯定されてもおれにできることは皆無だろう。
「トラブル?」思い当たる節がないといった表情で数秒ののち「もしかして、声聞こえてた?」
肩をすくめると彼女は人差し指の先でキーチェーンをひっかけてくるりとまわした。
「わたし、この島に来て三年って言ったでしょ。その間にも海難事故を何度も見てるんだよね。それで、もう少し注意喚起とか飲酒したら海入れないとかさ、考えたほうがいいんじゃないか、って話をしてたの。ちょっと強く言いすぎたかもね」
すれ違う赤色灯のついた車に彼女は会釈した。なんとなく、手を振るんじゃないかと想像していたから違和感があった。
「なるほど。本島もなかなかひどいって聞くよ。観光客はわかんないんだよね、どのあたりにより気をつけないといけないかって。まあおれも知らないけど」
「だよね。わたしだって全員にインストラクターつけろって言ってるわけではないんだけどさ」
「防げる可能性が高くなるなら、できる限りのことはやりたいだけだよね」
「そういうこと。だけど駐在さんってどうせそのうち島から出ていくし結構保守的なんだよね。そりゃ好き好んでこんな離島に派遣されてくる人はそうそういないけど」
彼女は声をひそめて言った。木陰で彼女が電話をかけているあいだに外に出ていたおばさんが現地の人らしき女性と井戸端会議をしているのが見えたからだ。
おばさんはおれたちに気がついて、またねえ、いってらっしゃい、とよく知っている類の日本語のやりとりをして別れた。今度こそ彼女はひらひらと手を振った。なるほど、彼女のフレンドリーな気質は移住者以外の島民に向けられているらしい。
「ねえ、島の言葉ってわかる人? マジで同じ言語とは思えないんだよね」
「わかんないわかんない。悪口言われてたってわかんない。よっぽど英語のほうがわかる」
「島っていうか島民にかなり馴染んでると思うけど、それでも無理なのか」
「馴染んでるかな」
軽トラックを解錠すると、彼女は運転席にまわる。おれが運転しようかと言いたいところなのだが、あいにくおれの免許はオートマ限定だ。
「移住者の子たちといるときより、地元の人たちといるほうが居心地がよさそうに見えるけど」
助手席のドアを引っ張るとむわっと熱気が肌にまとわりついた。運転席に勢いよく乗り込んできた彼女はセンターコンソールに置かれていたふたつのサングラスの片方を持ち上げる。
「一年住んだって三年住んだって、旅人なんだよ。きっと十年住んだって、島人にはなれない。旅人は旅人なんだよね」
サングラスで隠された目元からはなにも汲み取ることはできなかった。
船酔いするから、と酔い止めを飲んだ彼女は船に乗り込んでから終始仏頂面である。
小さな港にはいくつか小型のボートが停泊していて、すべていくつかのマリンスポーツの会社が所有しているものだと、ボートを出してくれたインストラクターのおっちゃんは説明した。この島のマリンスポーツの会社は一律料金で、どの会社にお願いしても金額は同じらしい。観光客を平和的にわけあっている。
マリンスポーツで稼いでいるくせに港に着替える場所はないらしく、軽トラの扉を開け放って目隠し代わりにしてサーフパンツに着替えさせられた。閑散期で人影もなくどうせ誰も見ていないとは言ってもかなり憚られる行為であったことには違いない。ウエットスーツは不要、かわりに、焼けたらしんどいから着ときなあ、とご当地ビールの銘柄のTシャツを貸してもらった。
ごうごうと激しく音を立てながら進むボートはいつも乗り慣れている機体にも似ている。不愉快な揺れ方という意味ではどちらかといえば数年前に何度か乗せられた機体のほうが近いかもしれない、などと少々感慨深く思った。
目指していた位置に辿り着いたらしくボートはエンジンを止めた。海面を覗き込むと、透き通る水面の下に魚の姿を何匹も見た。
「オジサンいる。オジサン」
彼女は自分の体調をぶらさないようにか抑揚なく言った。それでもぷらぷらと裸足を海水につけて海を楽しんではいる様子だった。
「え、どこ」
「そこそこ」
「え、どれ」
「ヒゲはえてるやつ。昨日着てたTシャツに描いてあったでしょ」
呆れたように彼女は言って、船に転がっていたファンを足につけはじめたので、おれもそれに倣う。もたもたしているあいだに、ざぱん、とライフジャケットを脱いで、Tシャツ短パン姿のまま彼女は海に飛び降りた。マスクとシュノーケルをつけぷかぷかと顔出して浮いている。
おれは泳げるとは言っても最後に海に入ったのは前回の訓練のときだから二年は前だし、マリンスポーツへの造詣は皆無だ。
マスクをつけることすらままならないおれの元へ操舵席から出てきたおっちゃんが寄ってきてマスクの紐を調整してくれる。マスクは鼻まで隠れるので口呼吸に移行する。
シュノーケルのマウスピースは、あ、の口でくわえて、い、の口で噛んで、う、の口で固定するのだ、とわかりやすい説明を得ながら、マウスピースを口に含んだ。念のため慣れるまではライフジャケットもつけたままでいこう、という言葉に頷いて脚から海水に入る。
彼女が言っていたとおり、晴れているのに、さすがにまだそれなりに海水温は低い。
海中に顔をつけるとライフジャケットの浮力によって肩が強引に持ち上がっている感覚がある。力を抜くとお腹側を空に向けてひっくり返ってしまいそうだった。フィンはきっとおれの泳ぎを補強してくれるはずだけど、蹴ることができているのかよくわからない。
突如、肺が跳ねた。心臓が波打つ。
息苦しさに動揺した。そうか、おれは要領を得ない自分を思わず鼻で笑ってしまったんだ。文字通り、鼻で。
間違えた、とマウスピースを通じて口で呼吸をする。でも、酸素を取り込めたような安心感がない。
何度も短い呼吸をくり返す。
そうやすやすと溺れるわけはない。この海を知り尽くしたインストラクターのおっちゃんも船の上にいる。潮の流れはおだやかで、ライフジャケットを着たままなのだ。
それでも、いつもどおりに息ができない。鼻から吸って鼻から吐くことができない。口呼吸を強要されることが肺を縮こまらせる。その非日常が正しい判断を鈍らせる。
――怖い。
そう、シュノーケルかマスクを外せばそれで解放される、ただそれだけなのに。
そうだ、それだ、と海面から顔を出してマスクに手をかけた。
「大丈夫」
背中から巻きつく腕をライフジャケット越しに感じた。
「大丈夫だよ」
おれの混乱はほんの数秒の話だっただろう。それに、溺れています、息がうまくできません、といった挙動をしたつもりはなかった。
マウスピースから口を離す。唾液がべっとりと伸びて海水と混ざりあった。陽光に照らされて光るそれはひどく間抜けな光景のように見え、よりにもよって背後でだれかに見られたいものではなかった。
「えーって言いながら吐いて、おーって言いながら吸ってみて。ゆっくりね、ゆっくり」
耳元で彼女の声がよどみなくおれに伝える。
いちど頷いて、ふたたびマウスピースをくわえる。あ、い、う。すっと背中からの支えが離れていく。彼女を追いかけるように手で海水をかき分ける。海中に顔をつけるとすぐ前を彼女のつけているフィンが優雅にゆれている。
えー、おー。えー、おー。
明確な発音の指示があることで、おれの脳内は普段しない口呼吸を理解できたようだった。ばくばくと鳴っていた心臓が凪いでいく。赤や青、黄色の小さな魚がおれを気にせずにちょこまかと動き回っている。
意識的に体をぐるりと回転させて、海中から天を仰ぐ。抜けるような青の背景を細く横断する飛行機雲がマスクで切り取られ絵画のようだった。
「そんなまるで他人みたいに話さないなんて白々しくない? 社内恋愛してるカップルみたいじゃん」
花火の消火用に海水をひとすくいした彼女の手からバケツを奪う。おれの顔を見上げて数秒沈黙ののち、ありがとう、と彼女は言った。
「バレてないと思っているのは当事者だけなのはあるあるだし、言い得て妙だね。もうあの子はわたしたちが食事をしたり船に乗ったりしたことを知っていてもおかしくないよ」
「島の情報がまわるのは早いからなあ」
彼女のいうあの子は、ついさきほどお手洗いに行ったホテルスタッフの女のことだろう。
浜辺では数人の手にちかちかと花火が咲いて、火薬の匂いとバーベキューのスモーキーな香りが混じり合っている。
シュノーケリングの帰りは彼女ではなくおっちゃんにホテルまで送ってもらった。おっちゃんがホテル方面に用事があり、彼女はそれこそこのバーベキュー準備に駆り出されたのだった。花火処分会の報せを受けた数人のうちのだれかが言い出しっぺとなり、急遽バーベキューが企画されたらしい。
GSの子とテストフライトが終わって浜辺へ来たのは一時間ほど前の話だ。すぐにおれに気がついたホテルスタッフの女が目ざとく焼かれた肉と缶ビールを両手に寄ってきたから、この一時間、話すタイミングを完全に逃していた。
「星が見たいなあと思ってるんだけど」
「花火してればそのうち出てくるよ。というかすでにほら、すばらしい」
彼女の言うとおりわざわざ場所を移動するまでもなく、あたり一面にはコントラストは弱いとは言え夜空にはすでに星が敷き詰められている。
バケツを大量の手持ち花火がまとめられているすぐそばに置く。花火とグリルの火では心許なくなってきて、複数のランタンに光が灯りはじめていた。それでも、昨日とは違って月が出ているから、漆黒に押しつぶされるような威圧感はなかった。
「それはそうだけど」
「じゃあちょっと散歩しよっか」
「気を遣わせてごめん」
彼女は屈むと、パッケージから線香花火の束だけを抜き取って、無造作に置かれていた使い捨てライターを拾い上げた。
「またホテルの子に捕獲されたらゆっくり見られないんだから、いいのいいの」
そう言って彼女は歩き出す。
GSの子が浜辺に現れたことに気がついた彼女は、両手で大きく手を振っていた。ホテルスタッフの男やほかの移住者らしき人たちともとくに無理もなく話しているようだった。
彼女は移住者を毛嫌いしていて島の人間だけを愛しているというわけではなくて、好意のある相手にはきちんと好意を示すのだ。そしてまともな人間性の持ち主なので、苦手とするような相手にも露骨な態度はとらない。ただ、媚びを売ったり、よく思われようとしたりはしない。
だから、彼女が自分としては不本意なのに歩くことを決めたというのは、彼女の言うとおり、ないのだと思う。そうしたいから、そうした。それだけなのだ。
「飛行機、問題なかったって聞いた。よかったね」
「今日は飲めなくて残念だったけど。明日十時に戻るよ」
「お客さんの乗ってない飛行機運転するのって、やっぱりなんか気分とか違うの?」
「テストフライトのこと?」
「それもそうだけど、明日も誰も乗せずに帰るんだよね?」
「あ、そうそう。よく知ってるね」
振り返ると花火が煌めいていて、笑い声も弾けているけど、けっして邪魔だとは思わなかった。もうあたりはだれもおれたちのことを正確に目視できないくらいには暗い。
「あ、あれ昨日の銅像ね」
彼女が指差す先を見上げる。どうやら昨日見た銅像を起点に、昨日とは逆方向の浜辺で集まっていたらしい。ということはこのまま進めばホテルの裏手に着くのだろう。
凸の字の突起をゆるやかにしたような、漢字の山みたいな形をしたこの島のちょうどいちばん出っ張っている部分にあるこの浜辺は左右を海に囲まれている。左側の岬にはおれが宿泊しているホテルらしき、この島にしては高層の建物がある。
銅像の先には低い平地が続いているのがわかって、申し訳なさ程度の高さの展望台だけが突き出ているのが見えた。
「銅像は見なくていいよ。まあもう見えたけど」
「わかってるよ」
軽い調子でやりとりして、階段から降りてくる人に踏み潰されないように、できるだけ海に寄って寝転んだ。
光の帯が空を横断するようにかかっている。夏にしか見られないものだと思っていたが、これはいわゆる天の川だろう。約二千億個の星の集まりがうねり、海へと陸へと雪崩れ込んできそうだった。
「圧巻だね」
「今日は月も小さいから明るすぎなくてよく見える」
そうだね、と相槌を打ちながら、美しさは恐怖を伴うことがあるんだよな、と考えていた。たとえば二宮さんと加古さんのセットを間近で見たときの畏怖のような。
「この星空を見て、だれかの顔が思い浮かんだ?」
「えっ」さすがに声が上擦ったかもしれない。「あ、遠回しに彼女いるか聞いてる?」
「そういうこともあるのかもしれないけど、人物の特定は重要ではない。そこに直結するなんて、意外とロマンチストなんだね」
「いやいや、恋人ってのは現実的な答えじゃない? だからどっちかと言えばおれはリアリスト」
「というより、想像力が陳腐なのでは」
「ちょっと言い過ぎ」
あはは、と笑った声と破裂音が混じる。わっ、と彼女は小さく驚いた。どうやら没収した花火の中には打ち上げ花火もあったらしい。ぱっ、と空が人工的な明るさで照らされる。
「たまに言われるんだよね。今度はあの人にも見せてあげたいなあ、とか」
「なるほど、そういうことか」
「わたしはそれを聞くたび、わたしには、そんな人はいないか、って思う」
わかる、と言いかけて唇を引き結んだ。
シュノーケリングを終えて陸に戻り着替えを済ませたあと。軽トラの扉越しに、彼女の分も含めて料金を支払いたい旨をインストラクターに伝えると、そんなんいらないよお、と煙草をふかして一段と大きな煙が立ち上ってから彼が言ったことを思い出していた。
――あの子が誰かを乗せたいなんて連絡寄越してきたのは、はじめてだったんだから。
おれにもいないように思う。でも、そう言い切るには違和感もあった。
今、隣で一緒に見ている君がこの星空をきれいだと言うのなら、また見せてあげたいと、おれは思うけど。
それは彼女の求めている答えとは違うのだろう。自分がきれいなものを見たときに、ここにいない人を想像する、というところに趣があるという話。隣にいては意味がない。そもそも、この島の星を見せるのだということであれば、見せる側は彼女なのだから、おれの想像力はほんとうに彼女の言うとおり使い物にならないらしい。
そうか、今ここにいない人か、と水平線の先まで続く星々を見ながら考えをめぐらせる。
それにしてもとにかく星が空間を占める割合が高い。振り返ってもずっと星空が続いている。
半世紀以上前には、二十キロメートル以上離れている岬とこの島で、同時にかがり火を焚いておたがいの火をそれぞれの場所から見ることで友好関係を示していたという。同様のことを昨年再現したところ、このご時世でもおたがいに遠くで燃えている火を見ることができたとニュースで見たことがあったことを思い出した。
何億光年向こうの星もこうして見えているのだから、数十キロ先の対岸の火くらい見えてもおかしくないように乱暴な説得をされそうになるが
「ああ――この島には、山がないんだ」ふと我に返って「わ、ごめん、話変えたかったってわけじゃない」
そうだ、視界を遮る高いものがないのだ。海岸沿いに山がないのは当然だけど、この島全体としてすごく開放的に感じるのはそういうことなのだ、とはたと気がついてしまって、口をついて出ていた。
おれが回答を放棄したことをさして気に留める様子もなく
「いいのいいの。山がなくていいな、ってわたしも思う。津波が来たら逃げるとこなくておしまいだ」
「津波が来たらおしまいなのに」
いいと思うの?
声に出してしまっていいのかわからず急ブレーキを踏んだ。彼女の明確なリアクションは返ってこない。
表情は窺い知れないのでおれはさらに言葉を重ねるか迷って、沈黙を選んだ。やっぱり今日もこの島の波はおだやかだ。そうだ、おれは彼女に選択肢を与えるために今日を過ごしていた。
「ごめん、不謹慎に聞こえたかも。津波で死ぬタイミングを神に委ねて待ってるわけではない。日常の海で死ねるタイミングはいつでもあるし、そうやって自分で自分を終わらせることを考えてみるターンはひとまずもう終わってる」
珊瑚の死骸や貝殻がじゃりじゃり音を立てる。
「三門あたりの人と会ってみたいと思ってたことがあったから、驚いた」
ぱあん、とまた花火が打ち上げられてにわかにまわりが明るくなる。彼女は砂浜にお尻をつけて腕で折り曲げた両脚を抱え込んでいる。
「どうしようもないことのせいで身近な人を失う経験をした人と知り合いたいと思ってた時期があって。自分の経験をみんなで話すことで楽になることがあるって言うから。でも、実際に探したことはなかったし、話したこともなかった」
ふー、とまるでかざぐるまを慎重にまわそうとするかのように彼女が息を吐いた音が聞こえる。
「わたしは雪山で人を見殺しにしたことがあるんだよね。だから、山を日常的に見なくて済むのは、ちょっとありがたい」
それきりまた彼女は口を閉ざした。
見殺し。
だれかを助けられなかったことをそう表現する人間をおれは何人か見たことがあり、何人も聞いたことがあった。
他人が死んだり困っているのを見ていながら意識的に助けないことを見殺しと言うのだと認識していたが、辞書で定義を調べたところ助けたくても助ける術がなく放っておくというのも、見殺しということらしい。残酷だ。そしてそれを引きずるのはたいてい後者だ。後者が背負うには見殺しという字面はあまりにも重すぎる。
「おれはもろに三門市の出身だし、なんならボーダーにいたんだ」
えっ、と動揺を隠すことなく彼女は声を出した。
「もしよかったら話を聞いてもらってもいい?」
「……わたしが聞いてもいいのなら」
思慮深い答えが返ってくる。
「おれが話したからって、無理におれに話す必要はないよ。もちろん、せっかく見つけた三門市民なわけだし、もしも話したくなったらどれだけでも話したらいい」
わかった、とつぶのはっきりした返事に緊張感を覚える。まるでおれはいろんな人に自分の話をしてきたような口をきいたが、おれだってみなまでわざわざ他人に話したことはないのだった。
起き上がろうとしたけど、いっそ仰向けのままのほうが変な力を入れずリラックスして話せるかもしれないと思い直して、膝だけを立てた。
「おれたちが戦闘体っていう死なない体で闘ってたのはわかる?」
「詳しい仕組みは理解してないけど、さすがに知ってる」
「オッケー。だから、おれたちは死なない前提で闘ってたんだけど、突然、相手がその前提を崩してくる可能性だってあったよね?」
「そうだよね。絶対はないし、相手が解析とかしてくるかもってことだよね」
「そう。だから、戦闘になったり遠征に行ったあとは、ああ、また死ななかったな、って思ってた。べつに、死にたいわけじゃないんだよ。ただ、また生き残ったんだな、って」
うん、と小さく相槌がある。
おそらく彼女も似たようなことを考えていたことがあるのではないだろうか。なぜ自分は五体満足生きてここにいるんだろう? と。彼らと自分はなにが違う? と。
「それについてはそのうち慣れたっていうか、割り切ったっていうか、そもそも人っていつかは死ぬわけだしさ」
「それは、わたしもそういう気持ちに近いかも」
「ボーダーを離れてからも、戦闘体で訓練したいなあとか思うことがあったし、おれは遠征にも行ってたんだけど、遠征艇、でっかい船みたいなやつね。あの機械音とか、揺れ方とか、ちょっと恋しいとか思ってた。お察しのとおり、そのへんはプロペラ機に通ずるところがあったりもする」
「仕事として警察とか自衛隊とかを選ばなかったのは、闘うこと自体が好きだったわけではないってことなのかな。あくまでも訓練、鍛錬みたいなところ? なんていうのかな、いつもあったものがなくなると、恋しくなるしね」
「そうなのかもね。まあボーダーにいたころみたいに闘うことなんて、今の日本では自衛隊だってそうあることではないから、そういう欲求があったとしたらなす術なしかも」
自他共に認める戦闘狂であった太刀川さんはそれこそ軍事的な関係に就職をするかと思われたが、なんといまやキッチンカーでカレー屋を営んでいる。ベースとなる学問がないから研究職にはつけないとはいえ、なにかしらを突き詰める過程には向いているのだ。
ボーダーは解体されたとはいえまだおれたちの学生時代が凝縮された本部の建物は残っているし、換装体での戦闘の想定やトリオン体研究というものはもちろん現在も続いている。そういった事柄の被験者(とくに戦闘)としても太刀川さんはよくボーダーに顔を出して協力しているらしいというのは、つい先月会った辻ちゃんに教えてもらったことだった。
「おれはおれの刺激のために、非現実を求めて飛行機に乗りたいわけではないって思いたかったけど、そんなのわかんないじゃん。それで、乗客全員の顔が見渡せるくらい小さな機体で、はっきりと明確に責任感をかたちにしたいと思った。乗客全員の人生を想像するんだ。身勝手に。そうするととてもじゃないけど無責任ではいられないからね」
彼女にいちいち聞いてます、というアピールを求めてはいなかった。それでも彼女は合間合間にコメントを入れたり、ああ、とかうん、とか勤めて冷静なリアクションをしたりしてくれていた。
さすがに今回の話には同情の色が返ってきて
「そんなに追い込んで操縦して、毎回つらくないの? すごく疲れるんじゃないの?」
「追い込んでいるというか、必要な儀式かな。とくにおれは、大きい災害で生き残り、軍隊に属して生き残り、なぜか死なない仮想の体で活動してた時間が長かったわけだし、正常性バイアスがかなりかかりやすい部類だと思う」
「自分は平気だ、今までも問題なかったんだから、って目の前のリスク軽視しちゃうってやつ」
「そう。なんでもうまくいくと思うなよ、ちゃんと小さい異変も見逃すなよ、みんながいるんだからな、と考える条件付けになっていい方向に働いてると思う」
「そっか、死線をくぐりぬけた経験っていうのは、デメリットになり得るんだ」
「実際、就職するにあたって結構そのへんシビアに見られてた気はするなあ。だから自分を信用できなかったんだ。適性検査とかメンタルチェックとか、数値上は正常だと示されているけど、そんなことはない、どっちかといえば異常だろ、って。おれはおれについてそう評価している。だからおれが最小限のコミュニティしか持たないのは、おれはおかしい側の人間だって思うからなんだ」
ボーダーにいた戦闘員の子どもたちは等しくおとなのように扱われていた。メンタルに不調があればもちろんカウンセラーとの面談はついていたし、そもそもそんな問題のある人間ははなから戦闘員としては弾かれていたはずだ、と思いたいけど、軍事的に利用価値のある子どもの数は多いに越したことはなかっただろう。事実、優秀な成績を出し続けてていたとはいえ、復讐心で動いているような危うい存在もいたわけだから。
そういえば、カゲの副作用はそういう点においてきわめて有益だったから、センシティブなことで守秘義務があるから詳細はカゲすら知らないものもあったようだけど、たまに人事部に呼ばれていた。
本人の性格の難儀なところに目をつぶってでも、それこそカゲへの負担を度外視してでも、他人の決壊を防ぐことのできる砦のような能力だったと思う。それはつまり、おれにとっては不利なところもあったけど。
「そんな感じのことを踏まえて選ぶとなると、じゃあ飛ばすならプロペラ機だな、ってなったってことか」
「そういうこと」
そっか、と彼女は小さくつぶやくと、砂浜に置いていたライターを拾い上げてやすりをまわす。つまみ上げた一本の線香花火に着火すると、ぷっくりとオレンジ色の蕾がついた。
「家族で海外旅行してたころ、パイロットになりたいと思ったのはなんでだったの?」
おれも起き上がって、か弱い火を頼りに一本線香花火を手に取る。じわじわと液体に変化していく火球が震えて、勢いよく火が弾ける。
「もちろん空を飛ぶっていうあこがれもあったんだけど」
彼女がこちらへ伸ばした手に握られているライターを受け取るために手を伸ばす。しゅ、と軽い音を立ててライターの先に火が点ったときには
「あ、ごめんごめん」
彼女の小指側の手のひらがおれの手のひらに当たっていた。彼女は火をつけてくれようとしていたのだ。
「いや、こっちこそ」
引っ込めた手をふたたび伸ばして、彼女はおれがぷらりと垂らした先端の火薬に着火する。
「空港でさ、何度か見たことがあったんだ。搭乗のときに楽しくなさそうだった人とか、深刻そうな表情をしてた人がさ、目的地についたら、到着ロビーで待っていた人と泣きながら抱き合っているところとか、笑顔ではしゃいでいるところとか」
ひと足遅れておれの手元の火球から火花が散る。
「そんな人たちのために長い距離を繋いであげられる仕事って、いいなあって思ったんだ」
「……やっぱり、ロマンチストなんだ」
「うるさいなあ」
笑った拍子にあっけなく橙の小惑星がぽっと落ちた。これは人生最短記録かもしれない。隣で早すぎ、と鼻で笑った彼女の肩を反射的に押すと、彼女の火種もあっさり重力に負けた。
声を上げた彼女が砂の上のライターを拾っておれに投げつけて、ライターが跳ね飛んだ。おれたちが幼稚園児や小学生だったら取っ組み合いの大げんかになっているところだ。
「わたし、降り損ねたふりしてリフトから降りなかったんだ」
飛ばされたライターを拾い上げていると、彼女が言った。
「やめておこう、って必死に止めなかった。だって、ノリが悪いって思われたくなかったから。それで、吹雪になったあと、戻ってきた人数は行った人数より少なかった」
どこかすっきりしたような、諦めているような、すでに過去のものとして消化できているような声色で彼女は言った。――そうではないんだろうけど。
百人が百人彼女のせいではない、と彼女に向かって宣言したとて、本人が自分のせいだと思えばそうなのだ。客観的な事実それだけを捉えることができないのが人間らしさでもあるけど、感情のオンオフのスイッチがあればよかった。
「わたしも、いわゆる普通の人が経験しないことを経験していて、それがいつか、今わたしのことを大切に思ってくれている人たちにバレるのが怖い」
長方形のプラスチックをきつく握る。
「メンタルおかしい人間に囲まれてたはずなんだけど、こういう話を顔つき合わせてしたことって意外とないんだ。みんなおかしいのが当たり前だったし。カウンセラーとかだと傾聴がセオリーなんだろうけど、おれはわかるよって言いたくなっちゃう。その場しのぎじゃなくて、ほんとうに、少しはわかるつもりなんだ」
彼女はふふふ、と声を出す。
「わかってる。普段こんなに言葉を尽くして話をしない人なんじゃないかなって思うから、本気だって、ちゃんと伝わってる。ありがとう」
ありがとう、と感謝したいのはこっちだった。エメラルドグリーンの海を泳いでから、おれはずっと彼女にそれを伝えたかった。
「今日、息がうまくできなくて怖いと思ったんだ。おれは、自分が死と隣り合わせみたいなスリルを欲してるのかもしれないって怯えてたけど、違ったって、わかったんだ」
死にたいわけじゃない。かといって強く生きたいと願っていたわけでもない。刺激的なことに身を置いていたい。
それが自分の根っこにあるのだと思っていた。そんなの、大丈夫ではなかった。それを誤魔化していたのだろう。環境や騒音や振動によって。
ただ、今日、おれは息ができなくて怖かった。それは生物として当然の反射かもしれない。それでも、ほっとした。
「それに、君が大丈夫だって言ってくれたろ」
大丈夫だと、言ってやる必要のある人間だと思われていなかった。なにより、自分自身、必要としていないとばかり思っていた。自分が、自分が大丈夫でないことを知っていればいいと。
それでも、あのとき、あのころ、ただ、大丈夫だと言われたかった。だれかにそう言って、抱きしめてもらいたかった。
いつもおれが、それを伝える側だった。おとなたちが悪かったわけではない。おれがそれを望んだ。両親のことも、姉たちのことも、おれは励ました。比較的、なにごとも楽観視するくちだとばかり思っていたふたりの姉がしばらく憔悴しているのを見るのはつらかった。両親は気丈に振る舞っていたけど、はやく日常に戻らなくてはいけない、取り戻す、という焦りをひしひしと感じていた。
「君にそんなつもりはなかったのはわかってる。それでも今日、おれはあの海で気がついたんだ。君のおかげだよ。だからなにかを返したいと思った」
「べつにあれは……」
「なんの意図もない、関係のないことだと思うだろ。そうだよ、でも、ふしぎなことに繋がったんだ。きっかけはどこに転がっているかわからない。だから、君も大丈夫だって、言わせてほしい。なにも知らないくせにと思うだろ。実際すべては知らないし、おれもよくそう思うからわかるよ。でも、無責任なことを言っているつもりもない」
おれがそうされたように、彼女の見るからに細い肩を抱きたいと思った。でも、それはいい選択ではないだろう。ひとたびそうしてしまえば、おれの言葉は途端になにか違う意味を持ってしまう。そんなのは不本意だ。
その代わりに、彼女の言葉が、行動が、おれを明確に支えたことを人生をもって示そう。おれはきっと、離ればなれに暮らしている人たちを再会させるために、より長い距離を飛ぼう。だってそれは、死んだ人に会うより、ずっと簡単なことなんだから。