第二便

      

 涙に閃光が反射して弾け散る。水滴は膨れあがり細長いビル群に姿を変え、意思をもっているかのようにうねったかと思えば途端に爆ぜた。瓦礫は波のように人の生活に押し寄せる。容赦はなく、目についたものをすべて飲み込むようにして真っ黒な砂利と化す。人々はそれを黒い砂浜といつからか呼び、文化財保護法のもと保存されるに至る――。
 
 遮光カーテンを開くと、地平線からのぼってくる朝日には雲ひとつかかっていなかった。真っ白にかがやく珊瑚の砂浜は感傷に浸れそうなほど美しい。世界遺産に登録されたって不思議ではないその風景を見ているというのに、気分はすぐれない。アルコールの未分解や風邪といった身体の機能的な話ではなく、夢見が悪かったことに起因するのはいうまでもない。ああいったタイプの夢が引き起こされた原因に思い当たる節がしっかりあるのがまだ救われる。無駄にリアリティあふれる法律部分に関しては笑いどころでもあった。
 朝食会場に向かったものの固形物を摂る気にはならず、コーヒーをテイクアウトカップに淹れた。コーヒーメーカーの横まで、昨日のチェックインのときと同じスタッフの女性が小走りで駆け寄ってきた。配車は済んでおり、十分後には到着する旨をひと息に伝える。昨晩は島の人間に案内してもらったのかと問われて瞬時に考えをめぐらせた。この島でおすすめのお店はどこなのかと逆に問いかけて歩きはじめれば、案の定、女性は知った店の名前を口にした。他人が想定通りに動くことには些細な優越感こそ覚えるものの、攻略本を読みながらプレイするゲームのようだ。
 正面玄関前まで当然のようについて来た女性はひとしきりあの店がいかに混雑していて予約が取れないか、だから別の店を教える、今日の夜はどうするのかといったことを話していたけど、五分前行動の同僚たちとタクシーに救助され、ことなきを得た。
 整備士を乗せたプロペラ機は着陸するやいなや、昨日立ち往生させてしまった乗客たちとCAを乗せて飛び立った。機体を確認したところ部品は持ってきたもので足りそうだということで、この空港には大きな修理ができる設備がないこともあり、その場にいた全員が安堵した。最終便が出たあと、十七時にテストフライトを行なうことになり、問題なければ明朝、フェリーフライトで本島へと戻ることになる。
 とくに整備を手伝えることもないため、執務室で事務作業をしてから空港食堂に立ち寄った。このあたりの名物である、鶏肉の入ったお茶漬けのようなものを頼んで食べていたところ、GSの子に声をかけられ昨晩の代打の礼を言われた。続けて感想を聞かれるのだろうと身構えたけど、まるで楽しかったに決まっているとでもいうように問われることはなかった。代わりに、テストフライトのあと手荷物検査で没収した手持ち花火をみんなで処分するから来ないかと誘われた。処分というのは花火を消化するということだ。つまり、普通に花火を楽しむのだろう。
 ――あの子も誘うの?
 澄ました顔でそれを尋ねる前に、考えておいてくださいねと言い残しGSの子は券売機へと向かって背を向けてしまった。

 昨日より気温が高く、からりとは乾いてくれない湿った空気と太陽が、半袖のワイシャツから出ている腕をじりじりと刺している。
 空港から歩いて五分ほどの場所にあった観光案内所は、真四角のコンクリートがどんと無造作に置かれているように見える建物だった。メンテナンス不良をアピールするように鈍い音を立ててドアが開いた。入ってすぐ右手側、病院に設置されていそうなソファに腰掛けて雑誌を開いていた中年女性が顔を上げ、どうもお、と歯を見せた。同じ挨拶を返そうと口を開きかけたところで、正面のカウンターの奥、扉の向こうからくぐもった声が聞こえた。言い争うような語気の強い音に思わず顔を見合わせる。
 女性は奥に続いているであろう、声の出どころである事務所に聞こえるか聞こえないかくらいの声量で、客が来ていることを告げた。どうやら彼女は観光案内所の従業員でもなければ、お客さんでもないらしい。
 じっとカウンターの奥の空気に神経を集中させる。会話は聞こえなくなったけどこれといった反応もなく、ひとまずおれもソファに腰を下ろすことにした。
 昨日もらった(正確を期するならおれが勝手に引っこ抜いた)観光協会制作のパンフレットをポケットから引っ張り出す。地図には飲食店や陶芸教室、シーグラスのアクセサリー教室、マリンスポーツの会社の位置と概要などが記載されている。
 観光協会に勤めているわけではないと言っていたことは覚えている。観光協会の人がかならずしも観光案内所にいるとも限らない。それでもこの小さな島のなかで、また邂逅するのかどうかそわそわするくらいなら、こちらからアクションをとったほうがいくらかマシな気がした。
 自分がいまどうしたいかという気持ちのままにあの子には接したように思う。だから、アルコールも背中を押し、他人に話したことのないことをわざわざ言った。それ自体はこの際構わない。問題だというのなら、おれがなんだか意味深なことをそれっぽい雰囲気のなかで言ってしまったことで、察しがよく共感力の高い彼女に、彼女自身の情報を不本意そうに口に出させてしまったということだった。
 だから、おれがおれのために言い訳のターンを用意したいわけではなく、彼女にその選択肢をあげたかった。おれはおれだけが、おれの周りだけが、ボーダーにいた人間だけが、あのとき三門市にいた人間だけが被害者なのだと、傷を負っているのだと、いまだに、たまに錯覚する。
 事務所に続くドアが音を立てて開いた。カウンターの奥から出てきたのは真っ赤な生地に白い葉っぱの模様が複数入ったシャツを着た恰幅のよい中年男性と、警察の制服を着た長身の若い男性だった。
 赤シャツの男性はおれをみとめて、いらっしゃい、と声をかけた。おれの隣にいる中年女性が口を開くと、ふたりは軽快なおしゃべりをはじめた。本島で聞く方言を理解できていないので、ここの方言がそれと同じなのかも似ているのかもわからないけど、とにかく同じ日本語話者とは思えない言語を使っている。
 呆気にとられていると、あっ、と別の女性の声がした。声のほうを向くと、女性は顔を隠すかのような会釈をした。どう見てもおれを空港からホテルまで送り、店で飲食をともにしたあの子だった。言語解読に意識を奪われて捕捉するのが遅れたらしい。パンフレットを振って足を止めさせた。
「もしかして、わたしに用事なんですか」
 もう二度と会わない的な設定じゃなかったんだ? と彼女の顔にはしっかりと書いてあった。
「そういうことになるかな」
「ここに勤務しているわけではないって言わなかったっけ」
「結果オーライ」
 泥酔した勢いでホテルでふたり一夜を明かしたあと、明け方にこっそり部屋から出て行ったことに気がついて、おれが追いかけたのかと錯覚するほどの気づまりさを彼女からは感じるけど、おれは無実だ。生きている限りおれらがまた出会う可能性はゼロではないなどと大それたことを言いたいわけではなく、少なくともおれが今日もこの島にいることはわかっていたはずなんだから、なにもそこまで驚かずともと思う。どちらかといえば、よっぽど居心地が悪いのはおれのほうだ。
 海行くんやったら車使ってええぞお、と赤シャツのおじさんの声に彼女は頭を振る。いいから連れて行きなよお、とおじさんは譲らない。彼女は決断をおれに委ねるようにして眉をしかめこちらを見ている。ひどく迷惑そうな表情をつくっているのがわざとらしくてかわいい。小さな島だ、あまり男女で親しくしているように見えると厄介なこともあるのだろう。
「まあ観光案内所だしね。お願いしようかな」
「たいていの場合、案内所の人自ら連れ立って案内はしないでしょ。ツアーガイドじゃないんだから」
 そうは言いつつも彼女は、じゃあ車借りるね、とショートパンツのポケットから取り出したスマートフォンをいじりはじめる。
「ありがたいけど、仕事は? 仕事ないの?」
「なんか違う意図にも聞こえるんですけど、今日はこれでお仕事終わりです」
「他意はないよ」
「そうかなあ」
 そう不服そうに呟くと、彼女は下げていた視線を上げて、端末を右耳に当てる。どこかへ電話をかけているようだ。
「シュノーケリング、したことある?」
「ないよ」
「だと思った。じゃあ、しましょう」
 あっもしもし、と彼女はおれと話すのと地続きのテンションで電話口の人物と話しはじめた。それがおそらくシュノーケリングなどのマリンスポーツのインストラクターであることを瞬間的に理解した。
「夕方には空港に戻るんだけど」
「そんなに長居しないよ。まだちょっと水温低いからね」
 小声でアピールしたおれに対して、スマートフォンを手で伏せることもせず彼女は言った。
「水着とかないんだけど」
「あ、嫌なんだ? 泳ぐの? 泳げないんだ?」
「嫌とかじゃないし、人並みに泳げるけど」
「あー、それ、制服だよね」
 彼女は自分が身につけているショートパンツの裾をつまんで生地を張る。うん、と肯定すると、男性用水着の持参をお願いしている。
「自分は着替えあるの?」
「わたし? わたしも入るの?」
「逆に煽っといてなんで入らないつもりだったの」
 えーっ、と不服そうに声を上げながら彼女はカウンターの奥に消えた。ふたたびドアが開けられたときには、スマートフォンの代わりに車のキーが握られていた。その腕にはまるで学生のプールの授業で使っていたゴム付きのラップタオルのようなワンピースが掛けられている。勤めていないけど、そういったものがここにあるということは、こうして突発的に海に行くことはよくあるのかもしれない。
 行きましょうか、とおれの横を通り過ぎた彼女に反応し音を立ててドアが開く。数十メートル先に駐車場らしき空間があり、ちょうどパトカーが出ていこうとしているところだった。
「そういえば、なにかトラブルだった?」
 まわりに人気がないことを確認してから問いかけた。怒鳴っているような声が聞こえたことは黙っていた。
「トラブル?」
 思い当たる節がないといった表情で数秒ののち
「ああ、声聞こえてた?」
 おれが肩をすくめると、彼女は人差し指の先でキーチェーンをひっかけてくるりとまわした。
「このたったの三年間で、海難事故を何度も見ていて。それで、もう少し注意喚起とか、飲酒して海に入るならライフジャケット必須とか、なんでもいいから考えたほうがいいんじゃないかって話をしていただけだよ」
 すれ違う赤色灯のついた車に彼女は会釈した。なんとなく、手を振るんじゃないかと想像していたから違和感があった。
「なるほど。本島もなかなかひどいって聞くよ。観光客はわかんないんだよね、どのあたりにより気をつけないといけないか。防げる可能性が高くなるなら、できる限りのことはやりたいよね」
「そう。だけど駐在さんってどうせそのうち島から出ていくし、結構保守的なんだよね。そりゃ好き好んでこんな離島に派遣されてくる人はそうそういないんだろうけど」
 彼女は声をひそめて言った。木陰に、彼女が電話をかけているあいだに外に出ていた中年女性が見えたからだ。おれらに気がつくと、いってらっしゃい、と女性が笑って、いってきます、とよく知っている類の日本語のやりとりをして別れた。今度こそ隣を歩く彼女はひらひらと手を振った。
「島の言葉ってわかる人?」
 そう問いかけると、彼女は大きく顔をゆがめた。
「わかんないわかんない。悪口言われてたってわかんない。よっぽど英語のほうがわかる」
「島っていうか地元の人にかなり馴染んでると思うけど、その努力として方言を学んだりしてるってわけでもないのか」
「馴染んでるかな」
 軽トラを解錠すると、彼女は運転席側にまわる。運転しようか、と言いたいところだけど、あいにくおれの免許はオートマ限定だ。
「移住者といるときより、地元の人たちといるほうが居心地がよさそうに見えるけどな」
 助手席のドアを引っ張ると、むわっと熱気が肌にまとわりついた。運転席に勢いよく乗り込んできた彼女は、センターコンソールに置かれていたふたつのサングラスの片方を持ち上げる。
「三年住んだって旅人なんだよ。きっと十年住んだって島人にはなれない。旅人はずっと旅人なんだよね」
 サングラスで隠された目元からはなにも汲み取ることはできなかった。

 船酔いするからと酔い止めを飲んだ彼女は、ボートに乗り込んでから終始仏頂面だ。
 小さな港にはいくつか小型のボートが停泊していて、この島で営業しているマリンスポーツの会社がそれぞれ所有しているものだと、ボートを出してくれたインストラクターのおっちゃんは説明した。この島のマリンスポーツの会社は一律料金で、どの会社にお願いしても金額は同じらしい。観光客を平和的に分けあっているというわけだ。
 マリンスポーツで稼いでいるわりに港に着替える場所やシャワーといった施設はないらしく(本来、会社で着替えやシャワーをするらしい)軽トラの扉を開け放ち目隠し代わりにしてサーフパンツに着替えた。閑散期で人影もなくどうせ誰も見ていないとは言ってもかなり憚られる行為であったことには違いない。ウェットスーツは不要だけど、焼けたらしんどいから着ときなあ、とビールの銘柄のロゴがプリントされたTシャツを貸してもらった。
 ごうごうと激しく音を立てながら進むボートは、いつも乗り慣れている機体にも似ている。不愉快な揺れ方という意味では、どちらかといえば数年前に何度か乗せられた遠征艇のほうが近いかもしれないと少々感慨深く思った。
 ウミガメがひょっこりと海面から顔を出すのを見ていたら目指していた位置にたどり着いたらしく、ボートは動きを止めた。海面を覗き込むと、透き通る水面の下に魚の姿を何匹も見た。
「オジサンいる。オジサン」
 彼女は自分の体調をぶらさないようにか抑揚なく言った。それでもぷらぷらと裸足を海水につけて海を楽しんではいる様子だった。
「え、どこ」
「そこそこ」
「え、どれ」
「ヒゲはえてるやつ。昨日着てたTシャツに描いてあったでしょ」
 呆れたように彼女は言って、転がっていたフィンを足につけはじめたのでおれもそれに倣う。もたもたしているあいだに、ざぱんと音がして水しぶきが足にかかった。いつの間にかライフジャケットを脱いで、Tシャツとショートパンツ姿のまま彼女は海に飛び降りていた。マスクとシュノーケルをつけ、顔を出して海面に浮いている。
 泳げるのは嘘ではないけど、最後に海に入ったのは前回の訓練のときだから二年は前だし、マリンスポーツへの造詣は皆無だ。マスクをつけることすらままならないおれの元へ操舵席から出てきたおっちゃんが寄ってきて、マスクの紐を調整してくれる。鼻まで隠れるから必然的に口呼吸に移行する。シュノーケルのマウスピースは〈あ〉の口でくわえて〈い〉の口で噛んで〈う〉の口で固定するのだとわかりやすい説明を得ながら、マウスピースを口に含んだ。念のため慣れるまではライフジャケットもつけたままでいこうという言葉に頷いて、脚から海水に入る。彼女が言っていた通り、晴れているのに、さすがにまだそれなりに海水温は低く皮膚が締まる感じがした。
 海中に顔をつけると、ライフジャケットの浮力によって肩が強引に持ち上がっている感覚がある。力を抜くとセミの死骸みたいにお腹側を空に向けてひっくり返ってしまいそうだった。フィンはきっとおれの泳ぎを補強してくれるはずだけど、うまく蹴ることができているのかよくわからない。
 突如、肺が跳ねた。心臓が波打つ。息苦しさに動揺した。そうか、おれは要領を得ない自分を思わず鼻で笑ってしまったんだ。文字通りに、鼻で。
 マウスピースを通じて口で呼吸をやり直す。開きっぱなしの喉を通じて酸素を取り込めたような安心感がなく何度も短い呼吸をくり返す。シュノーケルを通る自分の息のざらついた音に、さらに心拍が上がるのがわかった。
 そう簡単に溺れるわけがない。この海を知り尽くしているおっちゃんが船の上にいる。潮の流れはおだやかで、ライフジャケットも着たままなのだ。それでも、いつものように息ができない。鼻から吸って鼻から吐くことができない。口から呼吸をすればするほど喉がからからに乾燥することで肺が萎縮する。この非日常な動作が正しい判断を鈍らせている。
 ――怖い。
 シュノーケルかマスクを外せばそれで解放される。ただそれだけなのに。
 そうだそれだと海面から顔を出してマスクに手をかけて額までずり上げた。
「大丈夫」
 背中から巻きつく腕をライフジャケット越しに感じた。マウスピースから口を離して酸素を口から一気に吸い込み、胸が大きく上下する。おれの混乱はほんの数秒の話だっただろう。それに、溺れています、息がうまくできませんといった挙動をしたつもりはなかった。
「大丈夫だよ」
 マウスピースから唾液が蜘蛛の糸のように伸びて海水と混ざりあっている。陽光に照らされてきらきらと光るそれはひどく間抜けな光景のように見えた。よりにもよって背後で誰かに見られたいものではなかった。彼女はそれを知ってか知らずか、とんとんと二度おれの背中を叩く。
「えーって言いながら吐いて、おーって言いながら吸ってみて。ゆっくりね、ゆっくり」
 耳元で彼女の声がよどみなくおれに伝える。一度頷いて、ふたたびマスクを下ろしてマウスピースをくわえる。あ、い、う。
 すっと背中からの支えが離れていく。彼女を追いかけるように手で海水をかき分ける。海中に顔をつけるとすぐ前を彼女のつけているフィンが優雅にゆれている。
 えー、おー。えー、おー。明確な発音の指示があることで、おれの脳内は普段しない口呼吸をやっと理解できたようだった。ばくばくと鳴っていた心臓が凪いでいく。赤や青、黄色の小さな魚がおれを気にせずにちょこまかと動き回っていた。
 意識的に身体をぐるりと回転させて海中から天を仰ぐ。抜けるような青の背景を細く横断する飛行機雲がマスクで切り取られ、まるで絵画のようだった。

「ひと言も話さない、目も合わせない、なんて、白々しくない? 社内恋愛してるカップルみたいじゃん」
 花火の消火用に海水をひとすくいした彼女の手からバケツを奪う。おれの顔を見上げて数秒沈黙ののち、ありがとう、と彼女は言った。
「バレてないと思っているのは当事者だけなのはあるあるだし、言い得て妙だね。もうあの子はわたしたちが食事をしたり泳ぎにいったりしたことを知っていてもおかしくないけど、なにか言われた?」
 彼女の言うあの子は、さきほどお手洗いに行ったホテルスタッフの女性のことだろう。浜辺では数人の手にちかちかと花火が咲いて、火薬の匂いとバーベキュー独特の香りが混じり合っている。
 シュノーケリングの帰りはおっちゃんにホテルまで送ってもらった。おっちゃんがホテル方面に用事があり、彼女はそれこそ、花火処分会の報せを受けた人たちの発案であるこのバーベキュー準備に駆り出された。
 テストフライトを終えてキャプテンと整備士さんとGSの子たちと浜辺へ来たのは一時間ほど前の話だ。すぐにおれに気がついたホテルスタッフの女性が目ざとく焼かれた肉と缶ビールを両手に寄ってきたから、港で別れて以来、彼女とは話すタイミングを完全に逃していた。
「とくにはなにも。それより、せっかくだし星が見たいんだけど」
「そのうち出てくる。というかすでにほら、すばらしいよね」
 彼女は両手を広げた。わざわざ場所を移動するまでもなく、あたり一面にはコントラストは弱いとはいえ、すでに星が瞬いている。
 手持ち花火がまとめられているすぐそばにバケツを置く。花火とグリルの火のほか、複数のランタンに光が灯りはじめていた。昨日とは違って月が出ているから、暗闇に押しつぶされるような威圧感はちっともなかった。
「じゃあ、ちょっとだけ離れますか」
「気を遣わせてごめん」
 彼女は膝を折らず前屈みになると、パッケージから線香花火の束だけを抜き取って、無造作に置かれていた使い捨てライターをひとつ拾い上げた。
「問題ないよ」
 そう言って彼女は歩き出す。
 彼女の友人であるGSの子が浜辺に現れたことに気がついたとき、彼女は満面の笑みで手を振っていた。ホテルスタッフの男性やほかの移住者らしき人たちとも、それにキャプテンと整備士さんなんかとも、楽しそうに会話をしていたようだった。ただ、気に入られようと、全員によく思われようと、無理をしているようには見えなかった。
 だから、彼女が自分としては不本意なのにおれとここから離れることを決めたということは、ないのだと思う。そうしたいから、そうした。そうしてもいいと思ったから、そうした。それだけなのだ。
「明日戻れるんだって? よかったね」
「そのせいで今日は飲めなくて残念だったけどね。十一時台の便が来る前に飛ぶ」
「お客さんが乗っていない飛行機を飛ばすのっていつもと気分とか違うの」
「テストフライトのこと?」
「それもそうだけど、明日も誰も乗せずに帰るんじゃないの」
「フェリーフライトか。お客さんはたしかにいないね。でも明日は整備士さんを乗せて帰るよ」
 あっそうか、と彼女は頷いた。
 もうあたりは誰もおれらのことを正確に目視できなさそうなくらいには暗い。振り返ると花火がきらめいていて、笑い声が弾けている。光も音も、けっして邪魔だとは思わなかった。
 あ、と彼女が指差す先を見上げる。
「あれ、昨日の銅像ね」
 どうやら銅像を起点に、昨日とは逆方向の浜辺で集まっていたらしい。ということはこのまま進めばホテルの裏手に着くのだろう。島の外周はどこも同じような表情をしていて、土地勘がないと見分けがつかない。
「銅像は見なくていいよ。まあもう見えたけど」
「わかってるよ」
 身体にぴたりと張りついたTシャツに浮いていた下着の線を思い出す。ボートに戻ったあとライフジャケットを着るまで、目のやり場に困っていた。全裸を見るよりよっぽど見てはいけないもののように感じた。女なんて脱がしたらみんな同じだとかどうとか言っていたことが思い返され、気づかれようもないけど目を伏せた。
 階段から降りてくる人に踏み潰されないように、できるだけ海に寄ってふたり並んで寝転んだ。光の帯が空を横断するようにかかっている。夏にしか見られないものだと思っていたけど、これはいわゆる天の川だろう。約二千億個の星の集まりがうねり、海へと陸へと雪崩れ込んできそうだった。
 この島の出っ張っている部分にあたるこの浜辺は、左右を海に囲まれている。後ろにある銅像の先には低い平地が続いているのがわかる。ぐるりと見渡す限り、溢れそうなほど星が敷き詰められていた。
「うーん、圧巻だね」
「今日は月も小さいから、明るすぎなくてよく見える」
 そうだね、と相槌を打ちながら、美しさは恐怖を伴うことがあるんだよなと考えていた。たとえば、アイスランドの大自然であったり、加古さんを間近で見たりしたときの畏怖のようなことだ。
「星空を見て、誰かの顔が思い浮かんだ?」
「えっ」
 さすがに声が上擦ったかもしれない。
「なに、遠回しに彼女いるか聞いてる?」
「そういうこともあるのかもしれないけど、人物の特定は重要ではないです。そこに直結するなんて、意外とロマンチストなんだ」
「いやいや、恋人ってのは現実的な答えじゃない? だからどちらかといえばおれはリアリスト」
「想像力が陳腐なのかもしれない」
「ちょっと言いすぎ。せめて平凡とかにしてよ」
 あはは、と笑った声と破裂音が混じる。わっ、と彼女は小さく驚いた。どうやら没収した花火のなかには打ち上げ花火もあったらしい。ぱっと空が人工的な明るさで照らされる。
「たまに言われるんだよね。今度はこの星空をあの人と一緒に見たいなあみたいなこと」
「なるほど、そういうことか」
「わたしはそれを聞くたび、それっていいなあって思う」
 でも、自分に一緒に見たいと思う人はいない――という言葉が続くのだろう。わかるなあ、と言いかけて唇を引き結んだ。
 シュノーケリングを終えて陸に戻り、着替えを済ませた彼女がひと足先に軽トラを走らせていったあとだった。おっちゃんの軽トラの扉越しに、彼女の分も含めて料金を支払いたい旨を伝えると、いらないよお、とタバコをふかし、一段と大きな煙が立ち上ってからおっちゃんが言った。
 ――あの子が誰かを乗せたいなんて連絡寄越してきたのは、はじめてだったんだから。
 いま、隣で一緒に見ている君がこの星空をきれいだと言うのなら、また見せてあげたいとおれは思うけど。
 それは彼女の求めている答えとは違うのだろう。自分がきれいなものを見たときに、ここにいない人を想像するというところに趣があるという話。隣にいては意味がない。そもそも、この島の星を見せるのだということであれば見せる側は彼女なのだから、おれの想像力はほんとに彼女の言う通りに使い物にならないらしい。
 そうか、いまここにいない人――いなくなってしまった人か。
 水平線の先まで続く星々を見ながら考えをめぐらせる。この暴力的にすら感じる美しい夜空を、どこからか見ていてほしいと思わないこともない。ただ、おれが見せてあげるとか、おれが隣で一緒に見る必要はないのかもしれない。
 それにしてもとにかく星が空間を占める割合が高い。半世紀以上前にはこの島と、ここから二十キロメートル以上離れている島の岬で同時にかがり火を焚き、おたがいの火をそれぞれの場所から見ることで友好関係を示していたという。同様のことを昨年再現したところ、このご時世でも遠くで燃えている火を見ることができたとニュースで見たことがあった。何億光年向こうの星もこうして見えているのだから、数十キロ先の対岸の火くらい見えてもおかしくないなんて、乱暴な説得をされそうになるけど
「ああ、この島には、山がないんだ」
 そうこぼしてしまってから、ふと我に返る。
「ごめん、話を変えたかったってわけじゃない」
 そうだ、この島には山という視界を遮る高いものがないのだ。海岸沿いに山がないのは当然だけど、この島全体としてすごく開放的に感じるのはそういうことなのだとはたと気がついてしまって、口をついて出ていた。
 おれが回答を放棄したことをさして気に留める様子もなく
「山がなくていいなってわたしも思う。津波が来たら逃げるところがなくておしまいなんだ」
 と言って彼女が笑ったような気配がした。
「……津波が来たらおしまいなのに」
 いいと思うの?
 声に出してしまっていいのかわからず、急ブレーキを踏んだ。彼女から明確なリアクションは返ってこない。表情は窺い知れないのでおれはさらに言葉を重ねるか迷って、沈黙を選んだ。
「不謹慎に聞こえたかも、ごめん。津波で死ぬタイミングを神に委ねて待ってるわけではないです。死にたいなら日常の海でも死ねるわけで、そうやって自分で自分を終わらせることを考えてみる時期はひとまずもう終わってる」
 珊瑚の死骸や貝殻の砂浜が、じゃりじゃり音を立てる。
「三門あたりの人と会ってみたいなと思ったことがあったから、驚いた」
 ぱあんとまた花火が打ち上げられて、にわかにまわりが明るくなる。彼女は砂浜にお尻をつけて、折り曲げた両脚を腕で抱え込んでいる。
「三門の件は異質だけど、災害で身近な人を失う経験をした人たちと知り合いたいと思っていた時期があった。経験をみんなで話すことで楽になることがあるっていうから、そういう集会とかにも行こうとしたことはあるの」
 ついぞ行かなかったけど、と彼女は言った。まるでかざぐるまを慎重にまわそうとするかのように彼女が息を吐いた音が聞こえる。
「わたしは人を見殺しにしたことがあるんだよね。その関係で、山を日常的に見なくて済むのは、ちょっとありがたいんだ」
 それきりまた彼女は口を閉ざした。
 ――見殺し。
 誰かを助けられなかったことをそう表現する人間をおれは何人か見たことがあり、何人も聞いたことがあった。
「……おれはもろに三門市の出身だし、なんならボーダーにいたんだよ」
 えっ、と動揺を隠すことなく彼女は声を出した。
「もしよかったら話を聞いてもらってもいいかな。リアクションは無理にしなくていいけど、してもらってもいい。おれが話したからって、無理におれに話す必要もない。もちろん、せっかく見つけた三門市民なわけだし、話したくなったらどれだけでも話したらいいけど」
 わずかな間があってから
「わたしが聞いてもいいのなら、聞く」
 彼女は覚悟を決めたかのように言った。
 思慮深い答えが返ってきて緊張感を覚える。まるでおれはいろんな人に自分の話をしてきたような口をきいたけど、おれだってみなまでわざわざ他人に話したことはないのだった。
 起き上がろうとして砂浜に肘をついて、元に戻す。仰向けのまま膝だけを立てた。
「おれらが戦闘体っていう死なない身体で闘っていたのはわかる?」
「詳しい仕組みは理解していないけど、さすがに知ってるよ」
「おれらも厳密に理解していたかというと、していなかった。それでも、おれらは死なない前提で闘っていたわけだけど、ある日突然、相手がその前提を覆してくる可能性だってあったわけ。遠征とかはさらに不確定要素が多かったし。だから、戦闘になったり遠征に行ったりしたあとは、ああ、また死ななかったなって思ってた。べつに、死にたいわけじゃないんだよ。ただ、また生き残ったんだなって」
 うん、と小さく相槌があった。
 考えたくもないことだけど、彼女は当初、どこか死に場所を探すようなつもりでここにたどり着いたのかもしれない。その考えを改めさせてくれたのであろう、この島にいたという夫婦には嫉妬心すらわく。おれにも彼らの存在のような説得力があれば、救えたものもいくつかあったのだろう。
「それについてはそのうち慣れたっていうか、割り切ったっていうか、そもそも人はいつかは死ぬわけだし」
「ああ、わたしもそういう気持ちに近いかも」
「だけどさ、ボーダーを離れてからも、戦闘体でバトルしたいなあとか思うことがあって、それに関してはちょっとやばいのかなって思ったわけ。遠征艇――でっかい船みたいなやつね。あの機械音とか揺れ方とか、ちょっと恋しいなみたいな気持ちもあったし。お察しの通り、そのへんはプロペラ機に通ずるところがあったりもする」
 それは、と彼女は一度短く言葉を切った。
「いつもあったものがなくなると恋しくなることは変ではないし、かならずしも戦闘に依存していることには繋がらないかもしれないんじゃないの」
 かなり言葉を選んだようだった。それはそうだ。平和よりも戦時中を好むような発言をしたおれのことを狂人だと驚愕し、できれば常人とは違うその考えを否定できる要素を探してやろうとする。でも、そう考えてしまうおれ自身を真っ向から否定することもしたくはないのだ。彼女にも数えきれないほど自問自答した経験があるのだろう。
「まあボーダーにいたころみたいに闘うことなんて、いまの日本では自衛隊だってそうあることではないから、そういう欲求があったとしたらなす術なしかも」
 自他共に認める戦闘狂であった太刀川さんは、それこそ軍事的な関係に就職をするかと思われていたけど、なんといまやキッチンカーでカレー屋を営んでいるらしい。ベースとなる学問がないから研究職にはつけないとはいえ、なにかしらを突き詰める過程には向いていたのだ。ボーダーは一部解体されたけど本部の建物は残っているし、換装体での実験のようなこと自体は継続されていて、トリオン体研究は現在も続いている。前者については太刀川さんもよくボーダーに顔を出して協力しているというのは、いつだか会った辻ちゃんとひゃみちゃんに教えてもらったことだった。
「おれはおれの刺激のために、スリルを求めて飛行機に乗りたいわけではないって思いたかったけど、そんなのわかんないじゃん。それに、たしかに非日常的な仕事であることへの憧れもある。じゃあ、乗客全員の顔が見渡せるくらい小さな機体で、はっきりと明確に責任感を形にしたいと思ったんだ。身勝手に乗客全員の人生を想像する。そうすると、とてもじゃないけど無責任ではいられない」
 騒々しいプロペラ機は懐かしくて安心もするしね、と付け足す。
「多分だけど、パイロットってみんながみんなそんなに自分を追い込んで操縦していないよね。毎回それで、つらくないの」
「必要な儀式かな。とくにおれは、大きい災害で生き残り、軍隊に属して生き残り、死なない前提の仮想の身体で活動していた時間が長かったわけだし、正常性バイアスがかなりかかりやすい部類だと思う」
「自分は平気だ、いままでも問題なかったんだからって、目の前のリスクを軽視しちゃうってやつだっけ」
 そうそれ、と言ってから、彼女の学歴は知らないけど、会話を構成する知識レベルがわりと近しいところが居心地よく感じる理由のひとつなんだろうと気がついた。
「なんでもうまくいくと思うなよ、ちゃんと小さい異変も見逃すなよ、みんながいるんだからなって考える条件付けになって、いい方向に働いてると思う」
「死線をくぐりぬけた経験っていうのは、デメリットになり得るんだね」
「実際、就職するにあたって結構そのへんシビアに見られていた気はする。過去に比較対象もないし、上は悩んだだろうね。だから、おれは自分を信用できなかったんだ。適性検査とかメンタルチェックとか、数値上は正常だと示されているけど、そんなことはない、どっちかといえば異常だろって。おれはおれについてそう評価している。だからおれが最小限のコミュニティしかもたないのは、おれはおかしい側の人間だって思うからなんだ」
 ボーダーにいた戦闘員の子どもたちは等しくおとなのように扱われていた。メンタルに不調があればもちろんカウンセラーとの面談はついていたし、そもそもそんな問題のある人間は戦闘員としては弾かれていたはずだと思いたいけど、軍事的に利用価値のある子どもの数は多いに越したことはなかっただろう。事実、復讐心を原動力に動いていることを公言しているような危うい存在もいたわけだから。これの恐ろしいところが、復讐したいのだと大っぴらに言えるタイプはまだ対処しようがあるということだった。
 カゲの副作用はきわめて有益だった。守秘義務があるから詳細はカゲすら知らないものもあったようだけど、たまに人事部に呼ばれて、隊員をスクリーニングしていた。本人の性格の難儀なところに目をつぶってでも、それこそカゲへの負担を度外視してでも、他人の決壊を防ぐことのできる最後の砦のような能力だったと思う。それはつまり、おれにとっては不利なところもあったけど。
「そんな感じのことを踏まえると、じゃあ、飛ばすならプロペラ機だってなったんだね」
「うん」
 そっか、と彼女は呟くと、砂浜に置いていたライターを拾い上げてやすりをまわした。つまみ上げた一本の線香花火に着火すると、ぷっくりとオレンジ色の蕾がついた。
「まあそういうことでちょいちょい悩んではいたわけなんだけど。でも今日さ、海で息がうまくできなかったとき、怖いと思ったんだ。生物として当然の反応といえばそれまでなんだけど。でもおれは、自分が死と隣り合わせみたいなスリルを欲してるわけじゃなかった、死にたいわけじゃないって、身をもってわかった」
 彼女の手の下でじわじわと液体に変化していく火球が震えて、勢いよく火が弾ける。
 死にたいわけじゃない。かといって強く生きたいと願っているわけでもない。希死念慮や自暴自棄で刺激的なことに身を置いていたい――それが自分の根っこにあるのではないかと疑っていた。そんなふうに自分のことを理解している状況はちっとも健康的ではなかった。その不安を誤魔化していたのだろう、環境や騒音や振動によって。
 それはよかった、と彼女が感慨深そうに言った。
「じゃあ、最初にパイロットになりたいと思ったのはなんでだったの? プロペラ機は後から出てきた選択肢だよね」
 彼女はおれに問いかける。
 もう今日それがわかったというのなら、あえてプロペラ機を選ばなくてもいいんじゃないのかという意図が透けていた。
 おれも起き上がって、線香花火を手に取る。
「もちろん、空を飛ぶってかっこいいってのもあったはずだけど」
 彼女がこちらへ伸ばした手に握られているライターを受け取る。ライターの火をぷらりと垂らした先端の火薬に晒した。
「空港で、何度か見たことがあったんだ。搭乗のときに楽しくなさそうだった人とか、深刻そうな表情をしてた人がさ、目的地に着いたら、到着ロビーで待っていた人と泣きながら抱き合っているところとか、笑顔ではしゃいでいるところとか」
 手元の火球から火花が散る。繊細な火粉が暴れて肌に落ちているけど温度は感じなかった。
「そんな人たちのために長い距離を繋いであげられる仕事っていいなあって、思ったんだ」
「……やっぱり、ロマンチストなんだ」
「うるさいなあ」
 笑った拍子にあっけなく橙の小惑星がぽっと落ちた。これは人生最短記録かもしれない。早すぎ、と鼻で笑った彼女の肩を押すと、彼女の火種もあっさり重力に負けた。声を上げた彼女が砂の上のライターを拾っておれに投げつけ、ライターが跳ね飛んだ。おれらが幼稚園児や小学生だったら取っ組み合いの大げんかになっている。
「わたしたちは避難したの」
 飛ばされたライターを拾い上げていると、彼女が言った。努めていまの空気感を変えないようにしている声色だった。
「実家のあたりは山に囲まれていて、その日は記録的な豪雨だった。さすがにまずいかなって近所の人たちと避難した。家を出たとき、左隣の家の駐車場には車がなかったの。だから、もう逃げたんだと思って声をかけなかった。でも、違った」
 それは困っている人をその目で見ていないのだから、見殺しとはいわない。
 なんて、百人が百人彼女のせいではないと彼女に向かって宣言したとて、本人が自分のせいだと思えばそうなのだ。客観的な事実それだけを捉えることができないのが人間らしさでもあるけど、そんなにつらいことがあっていいのだろうかと何度考えたかわからない。
「三門の人たちは、恨む対象があったよね」
 彼女が言わんとすることが手に取るようにわかる。そうだね、と頷く。
「加害者と認識できる、復讐できる対象があった。気象には、なにも言えない、なにもできない。感情の行き場がなくてやりきれないな」
「どっちがつらいとか、優劣つけることじゃないなんてわかってる。それに、わたしは悪くないとも思うの。でも、それでも、ちょっと手を伸ばしたら届いていたかもしれない。それをしなかったのは事実だ」
 そう言ってから、彼女はまるで自分の気を鎮めるように深呼吸をひとつした。
 自分の経験を話したいなら話してほしいと言ったのはおれだ。でも、彼女にその先を紡いでほしくないという相反することも考えていた。それでもおれには、その続きを隣で聞く必要がある。
「三門市には、いたんじゃないかと思ったの。目の前で死にそうになっていた人を、その目で見ていたのに助けず、自分だけ我先に逃げて、見殺しにした人が」
 その人にくらべたらわたしはマシなんだと思いたかった、と彼女はほとんど消えてしまいそうな声で言った。
「インターホンひとつ鳴らすのを怠った。他人と比較して自分をまともだと思おうとするような、人間性が欠落している、そういう人なんだって、それがいつか、いま、わたしのことを大切に思ってくれている人たちに、わたしが好きだと思う人たちに、バレるのが怖い」
 声が震えないようにと意識して細かく区切られた言葉に、長方形のプラスチックをきつく握る。
「今日、君はおれに気がついてくれたよね。大丈夫だって言ってくれた」
 両親のことも、姉たちのことも、おれは励ました。なにごとも楽観視するくちだとばかり思っていたふたりの姉が憔悴しているのを見るのはつらかった。両親は気丈に振る舞っていたけど、はやく日常に戻らなくてはいけないという焦りをひしひしと感じていた。それがわかってしまったなら、少なくともおれはすぐに大丈夫にならないといけなかった。
 おれは大丈夫だと言ってやる必要のある人間だと認識されていなかった。いつもおれが、それを伝える側だった。おとなたちが悪かったわけではない。おれがそれを望んだ。なにより、自分自身、必要としていないとばかり思っていた。おれが、自分が大丈夫でないことを知ってさえいればいいと。
「おれは死ぬことが怖いことに気がついて、君に大丈夫だと言ってもらって、やっと大丈夫に近づいたんだと思う。君のおかげだよ。君がそうであると信じ込んでいる君の人物像とは、少なくともおれは違う印象をもっている」
 でもあれは、と彼女が強く割り込む。おれはここで引くわけにはいかなかった。
「関係のないことだと思うだろ。でも、繋がったんだ。きっかけはどこに転がっているかわからない。だから、君も大丈夫なんだって、おれに言わせてほしい。なにも知らないくせにと思うだろ。実際すべては知らないし、おれもよくそう思ってきたからわかるよ。でも、無責任なことを言っているつもりはない」
 おれがそうされたように、彼女の見るからに細い肩を抱きたいと思った。でも、それはいい選択ではないだろう。ひとたびそうしてしまえば、おれの言葉は途端になにか違う意味をもってしまう。そんなのは不本意だ。
 その代わりに、彼女の言葉が、行動が、おれを明確に支えたことを人生をもって示そう。おれはきっと、離ればなれに暮らしている人たちを再会させるために、より長い距離を飛ぼう。だってそれは、死んだ人に会うよりずっと簡単なことなんだから。