第一便



 今朝の梅雨入りの報せには驚いた。
 五月の大型連休中から月末まで毎日のように雨が降り続いていたから、すっかり梅雨なのだと認識していた。例年通りであれば、とっくに梅雨入りしている時期でもある。今日は雲がうっすらかかっていたものの、日没まであと二時間といったところの現在まで小さな雨粒すら降っていない。
 だから、離島と本島とでは天候がまったくといっていいほど違うことを差し引いても、なんでよりにもよって今日なんだという感じが否めない。しかも明日は快晴予報。もちろん、こんなことに本気で文句を垂れているわけではない。でも、そういえば去年も同じような話をしていたような気もするよね。
 空港食堂のカウンター越しに、食器を洗っていたおばさんとそんな世間話をして、暖簾をくぐり食堂を出た。
 この小さな南の離島の空港は平屋で、搭乗口はひとつしかなくこじんまりとしている。営業中は屋上が常時開放されていて、誰でも自由に出入りできるのはこの島のお気に入りポイントのひとつだ。とはいえ、はじめてプロペラ機を降りて視界に入った、田舎の役所かそれ以下かという小ぶりなサイズの空港にはぎょっとした。
 お土産屋を横目に待ち合い用の椅子が並ぶゾーンを抜ければ、すぐにチェックインカウンターがある。持っていた紙袋から観音開きのパンフレット四十部を取り出した。ゆるやかな漢字の『山』や『凸』のように見てとれる形状をしている島のイラストが表紙に描かれている。束になったパンフレットをカウンター横の棚に納めた。
 十一時台に到着する便を皮切りに、十六時台まで一時間ごとに一便の発着をくり返すこの空港の最終便は、定刻通りであれば数十分前には飛んだはずだ。それにしてはやけに食堂に人がいるなと思っていたところ、もずくそばをすすっていた漁師のおっちゃんが、機材トラブルで最終便が欠航したのだと言った。カウンターの横、運航情報のホワイトボードにも〈機材トラブルにつき欠航〉と赤いマーカーで書かれている。
 カウンター越しにグランドスタッフの友人が、コーパイさんをホテルまで送ってもらえないかとパソコンのキーボードを叩きながらわたしに尋ねた。『コーパイ』は飛行機の副操縦士のことをさすということを教えてくれたのは彼女だったように思う。
 プロペラ機は基本的に、キャプテン、コーパイさん、CAさんの三名で業務にあたっているはずだ。あとふたりはどうしたのかと問えば、ひとりずつ軽トラックで運んでもらったとのことだった。まさかいい年した大人を荷台に乗せるわけにもいかない。そもそも、いくら島には駐在さんがひとりしかいないとはいえど、会社名をあからさまに背負っている人間が道路交通法に違反するのはかなりまずい。
 この島にいわゆるホテルは一軒しかないので、ホテル名を問う必要もなく了承し、声を荒げないまでもそわそわとしている数人のお客さんたちを避け、外の駐車エリアへと続く自動ドアの横の壁にもたれた。
「申し訳ありません、お待たせしました」
 スマートフォンをいじっていた手を止めて、視線を上げると真っ白なシャツが目に飛び込んできた。すらりとした姿勢、半袖から伸びた日に焼かれすぎていない腕、そして、涼しい印象の顔立ちに、都会の喧騒を彼の背後に感じた。鼻筋が通っているというのは、まぶたが一重だとか二重だとか以上に、顔の造形における重要なポイントだと改めて思い知らされる。
「ご面倒おかけしますが、よろしくお願いします」
 わたしが言葉を失っていると目の前の男性が続けた。申し訳ないですと彼の眉が喋るかのように下がった。カウンターから、よろしくとでも言うように友人が片手を上げたのが見えた。疑ってはいなかったけれど、やはり彼がコーパイさんなのだろう。
 いえ、と端末をポケットにしまって、片腕に引っ掛けていた空の紙袋を畳む。
「タクシーが島に二台しかないので、こういったときの助け合いは慣れっこですよ。わたしもホテルに行く用事があるので、気にしないでください。それにしても災難でしたね」
 彼の瞳がわざとらしくゆっくりと細められる。
「それこそシャレにならない災難を未然に防ぐためなので、しかたがありません」
「それは、そうですね」
 彼の言うことはもっともだった。
 自動ドアに身体を向けると潮風で錆びついた鈍い音が響いた。湿った空気が腕に絡みつき反射的に、あつ、と短く声が出た。
「汚い車ですけど」
 と言って、わたしは出入り口の目の前に停めていたブラックの軽トラを指差し、運転席側へとまわり込んでドアを開けた。
「わたしのじゃないんで汚いとか言えた義理ではないんですけど。五分も走れば着きます。あと、ダッシュボードの紙袋、邪魔だったらこっちにください」
 観光協会の社用車である軽トラはお世辞にもきれいとはいえない。助手席のサイドポケットに突っ込まれた使い捨てライターやシートにふりかけみたいにまぶされている白い砂が突如主張してきて、矢継ぎ早に言い訳したくなっていた。
 縦に長い身体を折って乗り込んできた彼は
「お気遣いありがとうございます。軽トラの助手席って、はじめてかもしれません。荷台はあるのですが」
 シートベルトをこれまた長い腕で締めながら笑う。膝の上に置かれたブラックのつやつやした鞄の居心地が悪そうだった。
「そっちはあるんですか。荷台は風が気持ちよくていいですよね」
 畳んだ紙袋をセンターコンソールにねじ込む。このいかにも好青年がわたしも幼少期にしていたように、軽トラの荷台で額を全開にしながら風を受けているさまを想像するけれど、自分でかけたエンジンの騒々しい振動によって霧散した。
 右折して駐車場から車道に出た瞬間には、すでに真っ白な建物が視界に入っていた。山と呼べるようなもののない平らなこの島のなかで、もっとも高い建造物はよく目立つ。
「あの白い建物がホテルです。ホテルの中に飲食店が三つあって、もちろん売店もあるし、すぐそばの浜辺でマリンスポーツもできるし、二日くらい余裕でホテルの中だけで生活できますよ」
 いつだかにもあった機材トラブル時の流れを思い返す。明日、朝イチで整備士さんだけを乗せた空っぽのプロペラ機が飛んできて、整備士さんを下ろすと、今日の最終便に乗るはずだった人たちを乗せて旅立っていく。問題なく整備が終われば、明後日には彼らが修理されたプロペラ機に乗って出航できるといった塩梅だろう。
「かなり充実しているんですね」
「ほかはホテルとは呼べない民宿しかないので、あそこだけですけど。空港の外に出られたのは今回がはじめてですか」
 ええ、と彼は頷く。
「着いたと思ったらすぐに戻りますから」
 この島を訪れるプロペラ機の運航は基本的に宿泊を伴わない。島から島を同じ機体で休まずに飛んでいくので(端的にあらわす業界用語がありそうだけれど、あいにくわたしは関係者ではないので知らない)、彼らが仕事の合間に島へ立ち寄ることはないのが一般的。空港職員の執務室でお茶を一杯飲めばいいほうで、すぐに着陸させたばかりの機体に戻っていくらしい。彼らがこの島に滞在するのはこうした機材トラブルや天候不良のときくらいなのだ。
「上から見るこの島、海も相まってきれいですよね。ここでの暮らしもそうですけど、海沿いでの生活って、憧れの対象って感じがします。エンタメのコンテンツとかで印象的に描写されるからなんですかね」
 彼の言葉をお世辞ではないものとして受け取るならば、原付でも一周三十分かからない島をドライブするべきかもしれない。地元民だったらそうするだろう。でも、わたしはそういったサービスをすることに、まだ気恥ずかしいところがあった。
「ただまあ、外に洗濯物とか干せないし自転車とか原付とかすぐ錆びちゃうし、憧れが強かった人は案外うまくいっていないイメージはあります。わたしはそういう感じではなかったから、よかったのかもしれないです」
 わたしがそう言うと、ああ、と彼はどこかうれしそうに
「やっぱり移住された方なんですね。移住されてどれくらい経つんですか」
 なにがやっぱりだ、なにを根拠に思った通りなんだ、と思いながらも
「三年くらいです」
 とわたしは答える。
「三年って長いほうなんですかね」
「もっとずっと長い人はいますよ。それこそ地元の人と結婚する人もいますしね」
 平均的な話を彼がしたいことはわかっていたけれど、当たり障りのない回答を意識した。
「この島には結婚式場がないので、本島で式をあげるカップルが大多数なんですけど、ここで結婚式をするとなったらどこでやると思います?」
 うーん、と顎に親指を添えて彼は考える。
「それこそ、いま向かっているホテルですかね」
 わたしは首を横に振る。
「それがですね、公民館みたいなところでやるんですよ」
 えっ、と彼は声を上げた。
「みんなでとにかくいろんな余興をして、ひたすら飲む。わたしも一度飲みにだけ行かせてもらいましたけど、一生帰らせてもらえないかと思いました」
「楽しそうではありますけど、会社の忘年会みたいですね」
「それも、昭和のね」
 通りを右折するとレンタカーが数台停まっているホテルの駐車場が見えた。交通量が少なく信号機すらない道路での運転はスムーズだ。
 サイドブレーキをPに入れて駐車すると、彼は運転席のわたしのほうに顔だけを向け、ありがとうございました、と微笑んだ。この島では見慣れない笑い方だと感じた。
「ごめんなさい、その紙袋を持って降りてもらってもいいですか」
 シートベルトを外しながら要望を伝えれば、表情を崩すことなく彼は、いいですよ、と白い指先で取っ手を掴んだ。
「なにが入っているんですか」
 念のために施錠をしてから助手席にまわると、彼は紙袋を小さく掲げて尋ねた。
「観光協会が制作しているパンフレットです」
 すみません、と言って紙袋を引き取るため手を差し出したけれど、いいですよ、と彼はまたくり返しわたしに渡すことを拒絶した。なんだかベタなことをさせてしまったなと二度小さく頭を下げて、彼の隣に並んで歩き出す。
「観光協会で働かれているんですか」
 駐車場からホテルへと続く階段に足をかけたところで、彼が意外そうに尋ねた。
 移住者なのに観光案内をするような場所で働けるのか、歴史的な説明などできるのか、とても地元民には見えないから観光客はがっかりするのではないか――そんなことを彼が口に出して言ったわけではないのに、わたしはその意図を勝手に想像していた。
「いえ、わたしはフリーランスなんです。観光協会のパンフレットを制作してみたり、いくつか島の飲食店のSNS運用代行とかをやったりしているんです」
「SNS運用代行」
 異国語かのように彼はその言葉をくり返して、一度口を閉じた。
「意外かもしれませんね。離島っていろいろ遅れているというか、島外の人間的には、島の暮らしは自分たちの日常と異なっていてほしいって気持ち、あるとこあるじゃないですか。ずっと前はそうだったと思うし、もちろん不便なところはいまもあるけど、そんなに大差はないんですよね」
 彼は手元の紙袋から一枚パンフレットを引き抜いた。
 わたしは彼を困らせたいわけではなかった。それでも彼は、なるほど、と言ったきり、浮かんだ言葉をあれでもないこれでもないと打ち消すように、パンフレットを顔の前で小さく振っている。
 ヨーロッパのリゾート地を彷彿とさせる外観のホテルの自動ドアが開く。カウンターで並んでモニターを見ていた男女のスタッフがこちらに気がついて頭を下げた。シーリングファンが実用的にまわっていて、肌触りのよい風が肌を冷やす。
 女性のほうが即座に彼がコーパイであることを察して、チェックインの案内をはじめた。その流れで彼はカウンターの上に紙袋と、その隣に眺めていた分のパンフレットを置く。パンフレットの納品であることを男性スタッフに伝えると、労いの言葉とともに紙袋だけがカウンターの下へと回収された。
「では、わたしはこちらで」
 彼のなんらかの返事を待たずに身を翻す。背後で、ありがとうございました、と整った声が聞こえた。

 入口の戸を引くと古い木のきしむ音がして、味噌と醤油の香りが鼻をくすぐる。カウンターの向こうの調理場にいる店主が豪快に口を開けて、お連れさんもう来とるよお、と笑った。夏本番になったらその色はどうなってしまうのかと不安になるほど浅黒い肌によく映える、まるまるとした瞳がいかにも島人らしい。
 このお店は島民が来店したら帰りにまた次の予約を入れていくほどの人気店で、つねに満席だ。かくいうわたしもこの店の食事が島でいちばん好きだ。島暮らしに食の選択肢は少ないので、ここの味は生命線といっても過言ではない。
 グランドスタッフの友人は定時に終業することが叶わず、十八時の店の予約に間に合わなかった。やっぱダメだったごめん、とメッセージが入ったのはわたしがすでにシェアハウスの玄関でサンダルをつっかけているときだった。さすがに責める気持ちはわかなかった。続けて、代わりの人を召喚したから、とあったので、わたしは訝しみながらもそのまま家を出た。
 奥のお座敷にしといたよお、と店主の奥さんがにこにこというオノマトペが聞こえてきそうな表情をつくり、カウンター越しに言った。三つ並んだお座敷のうちふたつの襖は開け放たれていて、テーブルには〈予約席〉の札と丁寧に並べられた割り箸とおしぼりが見えている。座敷の下に収納されているのは、空港の近くにあるスーパーの一角でつねに売られているような樹脂製のサンダルだった。みんながこんなものを履いている気がするし、誰もこんなものを履いていないような気もした。
 ――一体、誰を呼んだのだろう。
 正直なところ、今日はもはやひとりでも構わなかった。
 移住者組のなかの誰かではないと思いたい。移住者会は定期的に開催されているし、わたしも参加することはある。けれど、集団になると、そしてアルコールが進むと、どうしても島に対するネガティブな話題も増える。わたしはあまりその雰囲気が好きではない。同じように感じているのがグランドスタッフの彼女だ。だから、彼女がその類の人間を呼ぶことはないはずだけれど。
 ひと息ついて襖に手をかけると、クーラーで冷やされた木の枠がひんやりとした。
「さっきぶりですね」
 くるりとこちらを向いた、まるで三日月が船のように浮かんだ口元を見て、わたしは反射的に半開きの襖を閉じることになる。
 襖の先でクレームが聞こえる。観念してすべりのいい襖をそろりと開けると、まるで感情の読めない瞳がこちらを見ている。ほんの一時間ほど前にホテルで別れたばかりの男性がそこにいるのだった。
「島でいちばんおいしくてめったに観光客が行けるお店じゃないから行ってくれって、わざわざホテルに電話までもらって頼まれたんです。よろしければご一緒させていただけないかなと」
「それはまあ、彼女の言う通りではあるんですけど」
 サンダルを脱いで右足を畳に乗せる。親指のネイルが欠けているのがやけに気になった。家を出るときにはすでにこうだったのだろうか。思い出せない。
 剥げたネイルを隠したい気持ちが勝り、わたしはそそくさと彼の横を通り抜け、テーブルを挟んで向かい合った。彼はなにも悪くなく、わたしにも固辞する理由は見当たらなかった。観光地であるこの地に三年もいれば、初対面での会話には慣れている。違うことといえば、この男性の醸し出す雰囲気がやたらと端正だということだけだ。
「お酒は飲まれるんですか」
 ラミネートされたドリンクメニューを手渡すと
「さすがに今夜は飲もうと思って来ましたよ」
 歌うような声が返ってきた。お酒は好きらしい。
 電車やバス、タクシー、運送業者の人が業務前にアルコール検査をするように、パイロットも検査があるのだろう。誰かが飛べなくなったときに、代わりに飛ぶ人も事前に指定されていて、飲酒が許される日は限られているのかもしれない。代替しづらい仕事だろうと簡単に想像がつく。
 開けたままにしていた襖のあいだから、生ふたつねえ、とジョッキがふたつと、もずくの入ったお通しの小鉢がふたつ運び込まれる。まだ注文してないと思ったけれど、わたしはこの店で飲み物といえば生ビールばかり頼んでいる。一杯目はビールで例外はない。いつものと宣言すらせずに出てきたビールに、わたしがこの店に通った回数を思う。そして、ひと足先に頼んでいたのだなと、向かいに座ってドリンクメニューをぱたぱたとうちわのように倒している彼に、フードメニューを押しやった。
 コーパイさんきれいなお顔しとるよねえ、と奥さんが言って、わたしに視線が寄せられる。わたしもそう思う。ただし、とてもではないけれど口に出して本人を目の前には言えない。
「国内線じゃなくて国際線がお似合いだよね。よりにもよってプロペラ機っていうのは解釈違いかも」
 おしぼりで手を拭きながら言うと、ああ、と彼はわたしの偏見を受け流すように
「それはよく言われます」
 と笑った。
「言われるんだ」
 思わず茶化してしまったことを誤魔化すため、いつものラインナップである、パイナップルキムチ、あおさ入りのだし巻き卵、島らっきょうの天ぷらのメニューをそらんじてオーダーした。はいよお、と下がっていった奥さんが閉めた襖が空間を隔て、わたしたちをいよいよふたりきりにした。
 それじゃあ、とジョッキを片手で持ち上げる。なんと発声すればよいものか一瞬躊躇したものの、お疲れさまです、と当たり障りのないところに落ち着ける。遠慮がちにジョッキがぶつかって、グラス越しに映るよく知らない男性が、島でよく獲れる『オジサン』という名前の魚のイラストが描かれたTシャツに着替えていることに気がついた。
 キャラクターものを取り入れて抜け感を演出、みたいなファッションがこれほど似合わない人間もいるのだなと感心した。ホテルのお土産売り場で売っているのを見たことがあるので、着替えのない彼がしかたがなく自ら購入した可能性はある。ただ、経験則から、これはさきほどホテルのカウンターにいたスタッフの女性が買い与えたものだと思った。
「プロペラ機って島民にとっては基本的に旅行とかの贅沢品じゃなくて、かけがえのない足じゃないですか」
 急いでジョッキから口を外して、そうですね、と相槌を打つ。
「だから、やりがいはあるんですよ」
「……なるほど」
「あ、信じていないですね」
 彼はあはは、と乾いた笑い声をわざとらしく立てた。
 信じる・信じないというより、仕切り直しのジョッキの音でよしとせず、過ぎ去りかけた話題を引っ張ってきてまで、それはアピールしたかったことなのかというところに驚いていた。彼はあえて話題を引き戻し、わたしに踏み込ませないように明確な線引きをしたようにも思えた。
「プロペラ機のコーパイさんってことは、本島に住んでいるんですよね」
 はい、と予想通りに彼が頷いた。
 横浜市や神戸市といった政令指定都市を彼の背景に想像していたけれど、プロペラ機のパイロットがそんなところに住んでいるはずがない。海沿いの生活に憧れがどうとか澄ました顔で言っていたけれど、彼だってそんな場所に暮らしているはずなのだ。やっぱりリップサービスだったんだからドライブなんて張り切ってしなくてよかったと割り箸を引き折ると、左側の箸が深くえぐれた。
「ただ、お察しかとは思いますけど地元民ではないので寮にいます」
「そうだと思いました」
 大人気ないと思いつつも、あなたも島人には到底見えないことを、あえて口に出して伝えておきたかった。
「出身はどこなんですか」
 と尋ねてすぐ
「あ、答えたくなければ答えなくてぜんぜん大丈夫です」
 島へ流れ着くのはマリンスポーツに取り憑かれているか、訳ありでどこかから逃げ出したかった人だと相場が決まっている――というと炎上しそうだけれど、だいたいそんな感じだ。わざわざ島を選んだことの意味付けをこの場で行なった彼には、どちらかといえば後者の可能性がちらついていて、質問を投げかけておきながら自分のために逃げ道をつくっていた。
「答えたくないことはないけど、なら、内緒にしておこうかな」
 なんだそれ、と心のなかで毒づいてもずくを口のなかに放り込むと、適度な酸味が舌の上を転がる。ここで、えーっ、なんでー? なんてリアクションをするのはなんだか癪に触る。
「小さいころからずっとパイロットになりたいと思っていたんですか」
「物心ついたころから中学くらいまでは毎年家族で海外へ行っていましたし、憧れではありましたね」
 この人の言う〝憧れ〟なんて当てにならない。それに、やっぱり国際線なんじゃないかと思った。思って、なんでわたしはこうもこの人に対して攻撃的な感想を抱いてしまうのだろうかと首を傾げたくなっていた。
「純粋にひとつのことをずっと追い求めて結果を出すってすごいことですよね。電車の運転士とかサッカー選手とか警察官とか、子どものころの憧れを現実にした人たちの一途さには頭が下がります」
 視界の先で襖が開いて、パイナップルキムチがテーブルに置かれた。それぞれにお礼を述べる。入れ違いに彼が手元にあったメニューからラフテーとゴーヤーチャンプルーをオーダーした。
「食べたくて頼んでしまいましたけど、島暮らしを選んだ人でこのへん食べられない人とか、いないですよね」
 純度百パーセントと嫌味の境目はあいまいだ。もしかすると、わたしが勝手に頼んだ分の仕返しなのかもしれない。
「わたしは食べられますし、好きですよ」
「ならよかった」
 あなたはわたしが頼んだものは嫌いではなかったですかと問う前に、彼が口を開いた。
「絶対になってやるみたいな、誰よりも強い気持ちがあったわけではなかったかもしれないですけど」
 わたしは黙ってパイナップルキムチに箸をのばす。
「大卒の経歴なんてよっぽどの大学を出ていない限りは、四年間自己管理ができたことの証明でしかないですよね。ただ、航空系の大学はそれにプラスアルファ忙しかったであろう要素がついてくる。教職取る人とかと似たり寄ったりかなって。それならパイロットを目指せるような大学に行って、もしダメだったとしても不利には働かないと思って進学しました」
 しゃくしゃく、とパイナップルを咀嚼する音が響く。甘酸っぱさの奥に島唐辛子が待っていてお酒が進む。
「高校生のときに、そこまで自分の進路を考えられるのがすごい。わたしはそんなふうに進学先は選べなかったです」
「みんなそんなもんじゃないですか。幸い私には姉がいましたし、多感な時期には気のいいお兄さんやお姉さんたちに囲まれていたので、現実がよく見えていてラッキーだったんだと思います」
 彼は自分を必要以上に卑下したり謙遜したりしないのだろう。そんなことをすれば、やっかみにあったり、押し問答になったりするということをすでに嫌というほど知っているのだ。その積み重ねが彼の洗練された空気感に一役買っているのかもしれない。
「小さいころから海外もよく行かれていたから、視野が広かったとかもあるんですかね。ちなみに、いままで行ったところではどこがおすすめですか」
 そうですね、と彼は考えをめぐらせていて、やはりいくつか候補があるらしい。
「アイスランドは自然のスケールが桁違いで印象に残っています。あたり一面の氷河と、バカでかい滝にかかる虹。視界をさえぎるものがなくて、地平線まで続いている大地。なにもないっていうのは開放感じゃなくて無力感になるんだってことは、あのときはじめて知ったかもしれないですね」
 ハワイとかバリとかグアムとか、そういうリゾート地じゃないのか。
 想定の範囲から溢れた国名にとまどっているあいだに、彼がキムチのお皿を引き寄せるのを見て、食べられるんだと安堵した。
「それに、オーロラが街中から見られてすごかったですよ。シャワーの硫黄の臭いがすさまじかったけど」
 わたしがちょっとうろたえていることを察したのか、わりと俗っぽい方向性の情報が追加された。アイスランドのことを知らない、興味がない、というわけではないアピールとして
「火山が活発で地熱発電なんでしたっけ」
 知っている知識をコメントする。そうそう、と彼は思い出をなぞるように頷いて
「洗った髪の毛から服まで、ずっと温泉の臭いがしていましたよ」
「硫黄臭いのはちょっと嫌ですけど、オーロラはいいですね。いつか見てみたいとは思っています」
 オーロラが見られるとされている国は、日本から軒並み距離が遠くて腰が重い。それに、行ったところでかならず見られる保証もない。日本にだって寒くて雪が降る地域はある。調べたところ、北海道や東北地方でも見られることはあるらしい。でも、ほぼ不可能だ。特徴は似ているのに、オーロラという特別なオプションがついている国はずるいなと思っていた。
「日本からアイスランドってたしか、直行便ないですよね」
 航空券を実際に手配するかどうかはさておき、オーロラが見られる可能性のある国までの行き方はインターネットで調べたことがあった。
「ですね。トランジット必須です。あのときはフィンランドに数日滞在したあとで、アイスランドに移動したんだったかな」
「フィンランドでもオーロラ見られますよね」
「そうですね。フィンランドでもオーロラは見ました」
 おしゃれなイメージのフィンランドではなく、硫黄臭いアイスランドがおすすめなのかと考えてから、そもそも彼はオーロラに感動したことを理由にアイスランドを挙げたわけではなかったことを思い出し、彼が人生においてなにを重要視して生きているのかを思った。
「どうして離島で暮らそうと思ったんですか。なにかきっかけが?」
 まず間違いなく聞かれる話題だ。もう何度同じセリフをくり返したかわからない。いまさら緊張する必要もないのに身構えてしまう。
「はじめて来たときに知り合った、オーストラリア出身の奥さんと日本人の旦那さんと親しくなって、移住を決めたんです」
「もともとどこか移住先を探していて、下見で来ていたんですか」
「いま考えるとそういう意識もあったかもしれませんね。でも、あんまり島暮らしのイメージはできていなかったかもしれません」
「人生を変えるような、いい出会いだったんですね」
「そうですね。ただ、もう彼らはここにはいないんですけど」
 すうっと襖が引かれて店内のざわめきがくっきり聞こえるようになる。だし巻き卵と天ぷら、そしてラフテーがリズミカルに配膳されるのを横目に、わたしはビールを煽って奥さんにジョッキを手渡す。おかわり? と促す声にうん、と頷くと、もうひとつのジョッキも回収して、同じやりとりが行なわれた。
「それは残念でしたね。日本にはいらっしゃるんですか」
 中断された会話をもう一度引き戻すことは、彼が日ごろ意識的に行なっていることのひとつなのかもしれない。あなたの話を聞いていましたよ、覚えていますよ、とこちらへ伝えるために。
「離島って、自殺したいって考えてる人が、死に場所を探してくることがわりとよくあるんですけど」
 受け取る相手によって威力が変わる単語を選んだので、そっと様子を窺う。とくに表情に変化や、嫌がる素振りがなかったのでそのまま続けることにする。でも、これはよい判断基準ではないかもしれない。彼は相手に理解されるほどわかりやすく感情の変化を見せることはなさそうだった。いまのわたしのように、彼のこの性質に甘える人はたくさんいるんじゃないだろうか。
「そういう人たちへの支援みたいなことを将来的にはやりたかったそうなんですけど、なかなか土地も買えないしあんまり理解も得られなくて、何か月か前に奥さんの国に行っちゃったんです」
「島って聞くとおおらかっぽいけど、内情は閉鎖的なところも結構ありますよね」
 おしぼりを丸めながら頷く。
「日本それ自体が島国なわけで鎖国とかしていたし、その国のなかでさらに離れていたら、しかたがないような気もしますよね。土地って言いましたけど、そもそも住宅が足りていないっていう問題もあって、わたしもいまだにシェアハウスに住んでいるんですよ」
「えっ、あれ、こっちに来て三年って言っていましたよね」
「そうなんです。ホテルの仕事をしていたときは寮があったけど、辞めてからはそこにいるわけにもいかずで」
「ホテルって、私が泊まっているあのホテルですか」
 首を縦に振ったところでビールが届けられて、わたしたちはそろってひと口を飲んだ。
「半年前くらいまで働いていました。ここで宿付きの仕事といえば、宿泊施設と空港スタッフしかないから、たいていの移住者はホテルか民宿か空港にいるんです」
 この島でいまいちばんお世話になっているマリンスポーツのインストラクターの夫婦には自宅の一室を貸すよと何度か打診されているけれど、断っている。じゃあ、このままシェアハウスで暮らすのか? 一体いつまで? と考えることはいったん放棄している。
「今日の受付の子たちは、辞められたあとに入ったんですか」
「いやいや。三か月くらいは一緒に働いたんじゃなかったかな」
 定型文みたいな会話しかしていなかったのだから、そう思われてもしかたがない。同時に、これが、親しく見えなかったよといった類の嫌味だったとしたら、その発想が出てくるところが、彼はここでの暮らしを理解しているようでしていないのだと感じる。仮にわたしが辞めたあとに彼らが働きはじめていたとして、半年も経っていて一度も邂逅をせず、ある程度の会話をせずに生活をするなど不可能に近い。それが離島のコミュニティだ。
「ごめんごめん、意地悪言った自覚はある。ただ、ああいう感じとは折り合いが悪そうだなって思ったんだ」
 不思議と、あなたが一体わたしのなにを知っているというんだとは思わなかった。それでも、そうなんですよ、聞いてくださいよと張り切ってつらつらと愚痴を並べたいわけでもない。
「あとはゴーヤーチャンプルーがきますけど、ほかになにか頼みます?」
 腰を浮かせ、五つ盛られているラフテーを小皿にふたつ乗せる。
「あ、やっと聞いてきた」
 お肉の塊を半分に切り分けようとしていた箸を止め、おそるおそる視線を持ち上げる。
「……やっぱり怒っていましたか」
 全部食べられるものだしまったく怒ってはいないけど、ときれいに巻かれただし巻き卵をひとつつまみ上げながら
「ただ、普通聞きませんか? 食べたいものがあるかとか、食べられないものがあるかとか」
 彼が呆れたように言った。
「ごめんなさい。ちょっとほんとにいつも通り注文しちゃいました」
 途端に恥ずかしくなり顔の前で手を振る。
「でも、全部おいしいですよね?」
 わたしはバカなふりをして問いかける。
「はは、かわいい」
 ぬっと伸びた長い腕が、わたしの目の前の小皿にラフテーをもうひとつ乗せて、ふたつ残った大皿を自分のほうへと寄せた。

「うわっ、暗っ」
 店から出ると彼が跳ねるように言った。
 街灯が申し訳程度にしか設置されていないこのあたりは、比喩表現でもなんでもなく暗闇になる。わたしはポケットからスマートフォンを取り出してライトをつけた。照らされた道路の細かい凹凸に白線が浮かぶ。
 二時間制の飲食はあっという間で、正直なところ物足りなさに後ろ髪を引かれながら店を出た。彼との会話が心地よかったことは否定しないけれど、シンプルにわたしが一度飲むと長いという話でもあった。
「ホテルまでは歩いて二十分くらいですかね。タクシーはこの時間だと呼んでも来ないと思う」
「来るときも歩いたから歩くよ。それにしてもほんとに暗いね」
「星空を見せるために街灯がほとんどないんですよ。観光のためにってのはわかるけど住民の生活は? ってちょっと思う。月があればもっとずっと明るいけど、今日は曇っているから」
「ギラギラしている本島の観光地では考えられないな」
「あそこはあの騒々しさが売りだから」
「観光地もいろいろだね」
「最近、海じゃない観光地は行きました? 国内っていうよりはやっぱり海外なのかな」
「高校時代はあんまり自由もきかなかったし、近場から飛行機も飛ばなくなったし。海外は家族旅行で最後に行ってからぜんぜんだね」
 そういえば国内旅行もしばらく行っていない、と彼は呟く。航空会社の関係者はみんなそろって旅行好きなのだとばかり思っていたので意外だった。
 アルコールでふやけはじめている頭がふわふわと、情報を咀嚼しはじめた。学生時代、彼の周りにはたくさんの人がいて、進学の選択肢は限られていなかった。ということは、とりわけ田舎という場所に住んでいたわけではないのだろう。それでも空港が近くにないようなエリア――いや、違う。かつては飛んでいたのに飛ばなくなったという言い方だった。ここ十数年で廃止された空港なんて何個もあるわけがない。
「もしかして、三門あたりの出身なの」
 ああ、と彼は諦めたように息を吐いた。
「うん」
 肯定する声が不自然に上気していた。余計なことを口に出したのだと察した。冗談ではなく本気で、彼は内緒にしておきたかったのだ。
 大学生のころ、友人がひとり暮らしをしていた八畳のワンルームに数人で集まり、缶ビールや缶酎ハイをあけていた。ベランダに出て誰かが吸っていた、細いタバコの甘ったるい香りが部屋の中にもうっすら漂っていたことを覚えている。そんななか、つけっぱなしになっていたテレビで放映されていたドキュメンタリー番組を、わたしは真剣に見ていた。真剣であることに気がつかれないよう、注意深く。
 情報統制されていて、当時伝えきれていなかった三門市のことや、三門市民や疎開した人たちのインタビュー、そして三門市を防衛していたボーダーと呼ばれる組織や人間にフォーカスが当たっていた。ボーダーの機能の一部が外務省や防衛省、自衛隊などに移管されたことなども紹介されていた。
 もしかして、彼が軽トラの荷台に乗ったのは、農作業のためや好奇心ゆえではなくて、まるで荷物のように運搬されたのではないだろうか。
 そう見当をつけてしまうと、運転席でわたしがもらしたあまりにも無神経な感想に頭を抱えたくなった。
「こっち、海だよね」
 え、と隣を歩く彼の指さす方向をライトで照らす。旧漁港にある街灯の光がぽつんと光っていた。
「浜辺」
「え?」
「浜辺、歩いてもいい?」
「……いいけど」
 どこから下に降りられたっけと脳内で地図を広げたものの確証はなく、飛び降りることができない高さでもないけどなと考える。アスファルトの道の奥にライトを向けると、どこかのアーティストがつくったという裸婦像が照らされた。なんとなく気まずくライトを下げたところで、その先に浜辺へ続く階段があったことを思い出し、もう少し舗装された地面で勘弁してほしいことを告げた。
「女性のヌード彫刻が街中にこんなにも置かれているのは日本くらいだよね。平和の象徴ってことらしいけど、後付けっぽい」
 銅像を追い越すタイミングで彼が言った。
 女性差別的なこと? と問えば、そうじゃないのかな、と彼は肯定した。
「女なんて脱がせたらみんな同じっていう思想の男たちがつくっているのかも」
「身体の構造の普遍性という意味では基本的にそれは男も同じでしょ」
「そうだけど、一般的に女性は好きな人とだけしたいでしょ。誰でもいいから男を脱がしたいとは思わないわけ」
「べつにおれも誰でもいいとは思わないけど、まあ周りの人間を見る限りでは頷けるか」
 そういうことよ、と言って階段に光を当てる。ほんの五段ほどの階段を踏み外さないように一段ずつ降りて、珊瑚の砂浜を踏み歩く。日中は白くかがやく砂浜も、夜は黒い画用紙のように塗りつぶされてしまう。
「本島もそうだけど、島の海って海の匂いがしないよね」
「磯の香りみたいなこと?」
「そうそれ。風もそこまで露骨にベタついていない気がする」
 本州出身者が脳内に描く海と、ここの海は違うだろう。でも、この島の人たちにしてみれば、ここの海こそが海なのだ。海というひとつの単語を提示したときに、見える色や聞こえる音、五感のイメージが異なるのはおもしろくもあり、切ないことのようにも思う。
「それでも出歩くと髪の毛バッサバサになるよ。切りたいけど島に腕のいい美容師さんがひとりしかいなくて、みんな切ったらまた次の予約を取るから永遠に切ってもらえない」
「コンビニもなさそうなのに、美容室がそう何個もあるわけないか。でも、そんなに傷んでいるようにも見えなかったけどな」
「残念ながら、触ればわかります」
 ほら、と親指と人差し指で自分の髪の毛をつまんで束をつくる。ふうん、と彼は興味なさそうに言ってわたしの毛先を指先でこすった。それから、流れ作業のようにわたしの側頭部に触れて、親指がなでるようにこめかみを往復した。割れ物を扱うかのように、そっと髪の毛を耳にかけられる。
 けっしてわたしは異性に慣れていないわけではない。それでも歪なふたりの影が奇妙で、思わず立ち止まってしまう。
「まあ不健康と断定はしないけど、健康的ではないか」
「ひどい」
「自分が言い出したんでしょ」
 せめてもの抗議として、わたしはライトを消した。わたしたちのまわりには、ただ静かな重たい闇が広がっていることだけがわかる。
 これは一体、なにに対する抗議なのだろうか。
「触れないと、見えないと、わからないこともある」
 彼は淡々と言った。わたしは深く考えることはせず、そうだね、と賛同した。
「ここに海があるって、いまは見えないから信じられない」
 彼が呟いたその刹那、ふっと隣から気配が消えた。反射的に彼を探すように、捕まえるように腕を伸ばしてしまって、わたしはこの手をどうするのだと思い直した。ただぶらぶらとわたしの手は空気を触る。
 海へ、闇へ、吸い込まれて行ってしまうのではないかと怖かった。
 急いでライトをつけ直すと、彼はほんの人ひとり分程度だけ、わたしの前で背を向け立ち止まっていた。
「……ほんとはさ」
 暗闇に転がった声が、囁くような波音にさらわれていきそうだった。聞き返して引き戻したい気持ちと、そのまま流れていってほしい気持ちのあいだでわたしは口を開けられずにいた。
「プロペラ機はバカみたいにうるさい。繁華街は観光客だらけで、人がすぐ入れ替わる。ターン運航は必要以上のコミュニケーションは必要ない」
 ああ、島から島にすぐ飛び立つあの運航スタイルはターン運航っていうのかと場違いに納得していた。
「それが、おれにとっては、いいことだと思ったんだ」
 高尚な理由はどこへいってしまったのか。
 この場限りの関係であるからこそ、それっぽく雰囲気やお酒に酔ったふりをして感情を吐露することができるとでもいっているようだった。島で行なわれる観光客との行き当たりばったりのコミュニケーションは二分化される。無礼講のバカ騒ぎか、このパターン。今日が、彼が、はじめてのことではない。
「わたしも逃げ回ってここにたどり着いたのかも」
 それなのに、わたしはいつもと違うリアクションをとってしまう。自分の口から出た声に喉の奥だけで動揺した。そこそこ頭は冷静で、近くの民家で鳴っている風鈴の音を聞き取っていた。
 彼はゆっくりとこちらを振り返り、そしてなにも言わなかった。
 自分が吐き出してしまった言葉を後悔しているのかもしれないし、わたしの自分語りに書き換えられたことを怒っているのかもしれなかった。Tシャツにプリントされたオジサンだけが間抜けな顔をしてわたしを横の目で見据えている。
「このまま歩いて次に出てくる階段を上がったらホテルの裏手です。明日は晴れるみたいなので星も見られるかもしれません。釈迦に説法ですけど、島の天気予報は当てになりませんけどね」
 これ以上余計なことを言わないように、勝手知る現地民らしく距離感を再度取り直して、彼にとって有益な情報だけを授けた。
「それじゃあ、おやすみなさい」