第一便



 今朝の梅雨入りの報せは実情にそくしていないタイミングだった。
 五月の大型連休中から月末まで毎日のように雨が降り続いて、わたしはすっかり梅雨入りをした気になっていた。今日は雲がうっすらかかっていて太陽は出ていなかったものの、日没まであと二時間といったところの現在まで小さな雨粒すら降っていない。だから、離島と本島とでは天候がまったくと言っていいほど違うことを差し引いても、なんでよりにもよって今日の梅雨入り宣言なの、という感じが否めなかった。しかも明日は快晴予報ときた。もちろん、こんなことに本気で文句を垂れているわけではない。気分の問題だ。
 というような世間話を空港食堂のカウンター越しに食器を洗っていたおばさんとしてから、食堂の暖簾をくぐった。
 食堂を出てお土産屋を横目に待ち合い用の椅子が並ぶゾーンを抜ければすぐチェックインカウンター。すべての位置が見渡せるほどに狭い。この島の空港は平屋で搭乗口はひとつしかなく、こじんまりとしている。屋上が開放されていて、だれでも自由に出入りできてお見送りの島民や観光客がちらほらいるのが機内からでもよく見えるのは、この島のお気に入りポイントのひとつだけれど、はじめてプロペラ機を降りて視界に入った田舎の役所かそれ以下かというサイズの空港にはぎょっとした。
 原付で三十分もあれば一周可能な小さなこの島のイラストが表紙に描かれている、観音開きのパンフレットの残りを紙袋から取り出してカウンターの端の棚におさめる。わたしに気がついたグランドスタッフの友人のひとりが、カウンター越しにパソコンのキーボードを叩きながら、コーパイをホテルまで送っていってほしい、と言った。コーパイは航空業界用語で飛行機の副操縦士のことをさす、ということを教えてくれたのも彼女だったように思う。
 十二時ごろ、十四時ごろ、十六時ごろの三便しか就航していないこの空港の最終便は数十分前には過ぎたはずなのにやけに食堂に人がいるな、とは思っていたところ、もずくそばを啜っていた馴染みのマリンスポーツインストラクターのおっちゃんに機材トラブルで最終便が欠航したのだと聞いた。カウンターの横、運航情報の書かれたホワイトボードにも【機材トラブルにつき欠航】とある。
 この島に“ホテル”は一軒しかないので、名称を問う必要もなくわたしは二つ返事で了承し、声を荒げないまでもそわそわとしている数人のお客さんたちを避けるようにしてカウンターを離れ、自動ドアの横の壁にもたれてコーパイを待つことになった。
 この島を訪れるプロペラ機の運行において、パイロットやCAたちは基本的に宿泊を伴わない。島から島を同じ機体で休まず飛んでいくので(端的にあらわす業界用語がありそうだけれど、あいにくわたしは関係者ではないのでわからない)、彼らが仕事の合間に立ち寄ることはないのが一般的だった。空港職員の執務室でお茶を一杯飲めばいいほうで、すぐに着陸したばかりの機体に戻っていくらしい。彼らがこの島に滞在するのはこうした機材トラブルや天候不良のときくらいなのだ。
 プロペラ機はキャプテン、コーパイ一名ずつ、そしてCA一名(教官と新人の二名体制のときもある)で業務にあたっているはずで、あとふたりはどうしたのかと問えば、キャプテンもCAもひとりずつ軽トラックで運んでもらったとのことだった。まさかいい年した大人を荷台に乗せるわけにもいかないのでしかたがない。あと、いくら島には駐在さんひとりしかいないにしても道交法的にまずい。
「申し訳ありません、お待たせしました」
 声のしたほうを振り返ると真っ白なワイシャツが目に入る。シャツをなでるように顔を上げて、そのまますっと視線を引っ張られた。品のあるすらりとした姿勢、そして、目鼻ははっきりしているのにそれでいて涼しい印象の顔立ちに、都会の喧騒を彼の背後に感じた。下からのアングルに耐えうるその整った造形に静かに圧倒されていた。
「ご面倒おかけします。よろしくお願いします」
 わたしが言葉を失っていると目の前の男が続けた。疑う余地もなく、彼がコーパイさんなのだろう。申し訳ないですと彼の眉が喋るかのように下がった。
「いえ」握っていた空の紙袋を意味もなく畳みながら「わたしもホテルに行く用があるので気にしないでください。それにしても災難でしたね」
 彼の瞳がわざとらしくゆっくりと細められて、背筋をすっと冷たいものに撫でられた気持ちになる。
「それこそシャレにならない災難にならないためなので、しかたありません」
「それは、そうですね」
 わたしは肩をすくめて外へと続く自動ドアを進む。湿った空気が腕を撫ぜ、反射的に「あつ」と短く声が出た。出入り口の目の前に停めたブラックの軽トラックの助手席側を指し「汚い車ですけど」わたしは運転席側へとまわりこむ。
「わたしのじゃないんで汚いとか言えた義理ではないんですけどね。五分も走れば着きます。あと、ダッシュボードの紙袋、邪魔だったらこっちにください」
 長い脚を折りたたむように乗り込んできた彼に畳み掛けるように言った。
 観光協会の社用車である軽トラの助手席のサイドポケットに突っ込まれた使い捨てライターやシートにふりかけみたいにまぶされている白い砂が突如主張してきて、矢継ぎ早に言い訳したくなっていた。
「お気遣いいただきありがとうございます」彼はシートベルトをこれまた長い腕で締めながら「軽トラの助手席ってはじめてかもしれません。荷台で運ばれた経験はあるんですけど」と笑う。膝の上に置かれたブラックのレザーっぽい鞄が居心地が悪そうだ。
「あ、そっちはあるんですね?」センターコンソールに持っていた紙袋を畳んでねじこみながら「荷台は風が気持ちいいですよね」
 この端正な顔立ちのいかにも好青年が、わたしも幼少期にしていたように軽トラの荷台で額全開にしながら太陽光のもと風を受けている様を想像するけれど、自分でかけたエンジンの騒々しい振動によって霧散した。
 右折して車道に出た瞬間には、すでに真っ白な建物が視界に入っていた。山と呼べるようなものはなく、比較的平らなこの島でいちばん高い建造物は目立つ。
「あれがホテルです。ホテルの中に飲食店も三つあるし、もちろん売店もあるし、ホテルからすぐ降りた砂浜でマリンスポーツもできるし、引きこもってても問題ないですよ」
 明日、朝イチで整備士だけを乗せたからっぽのプロペラ機が来て、整備士を下ろすと今日乗れなかった人たちを乗せて旅立っていく。問題なく整備が終われば明後日には彼らが修理されたプロペラ機に乗って出航できるといった塩梅だろう、と今月のいつだかにもあった天候不良時の流れを思い返す。丸二日もない滞在なら十分だ。
「ホテル、かなり充実しているんですね」
「ほかはホテルとは呼べない民宿しかないので、あそこだけですけど。空港から出られたのは今回がはじめてですか?」
「そうなんですよね。上からは何度も見ていますけど、着いたと思ったらすぐに戻りますから」
 一瞬、上とは? と考えたけれどすぐに上空ということか、と思い当たった。そのほんのわずかしかない間にさえ気まずさを覚えたのか、彼は続けた。
「なんとなく海沿いの生活ってあこがれがあります」
「わたしも海側にはあんまり馴染みがない山間部出身なので、わかります」
 彼の言葉をお世辞ではないものとして受け取るならばダイレクトにホテルへ送らずに、ドライブするべきかもしれない。島民だったらそうするだろう。でも、どうしてだかわたしにはそういったサービスをすることにまだ気恥ずかしいところがあった。
「やっぱり移住された方なんですね」
 やっぱり、という部分に引っかかったけれど努めて平静を装い運転に集中しているふりをする。
「移住されてどれくらい経つんですか?」
「えーっと、三年、ですかね」
 通りを右折すると、数台の『わ』ナンバーの車が数台停まっているホテルの駐車場が見えた。サイドブレーキをPに入れて駐車すると彼はきれいに口角を上げて、運転席のわたしのほうに顔だけ向け「ありがとうございました」と微笑んだ。この島では見慣れない笑い方だと感じた。
「ごめんなさい、その紙袋を持って降りてもらってもいいですか?」
 シートベルトを外しながら要望を伝えれば、表情を崩すことなく彼はいいですよ、と白い指先で取っ手をつかんだ。
「なにが入ってるんですか?」
 念のために施錠をしてから助手席にまわると彼は紙袋を小さく掲げて尋ねた。
「観光協会が制作しているパンフレットです」
 すみません、と言って紙袋を引き取るため手を差し出したけれど、いいですよ、と彼はまたくり返しわたしに戻すことを拒絶した。なんだかベタなことをさせてしまったな、と二度小さく頭を下げて彼のとなりに並んで歩き出す。
「観光協会で働かれているんですか?」
 駐車場から建物へと続く階段に足をかける。
 移住者なのに観光案内をするような場所で働けるのか、歴史的な説明などできるのか、あなたはとても島民には見えないから観光客はがっかりするのではないか――そんなことを彼が口に出して言ったわけではないのに、わたしはその意図を勝手に想像していた。
「わたしはフリーランスなんですけど、観光協会でそれこそパンフレットを制作してみたり、いくつか島の飲食店のSNS運用代行とかやったりしてるんです」
「SNS運用代行」
 異国語かのように彼はその言葉をくり返して、いちど口を閉じた。
「意外ですよね。離島っていろいろ遅れているというか、島外の人間的には、離島の暮らしは自分たちの日常と異なっていてほしい、って気持ち、あるとこあるじゃないですか。ずっと前はそうだったと思うし、もちろん不便なところはあるけど、もうそんなことはないんですよね」
 紙袋から彼が一枚パンフレットを引き抜いて、そもそも太陽は雲に隠れてはいるうえに、十九時の日没に向けてもうだいぶん落ちてきているはずの空に向けてかざす。わたしは彼を困らせたいわけではなかった。それでも彼は「なるほど」と言ったきり、浮かんだ言葉をあれでもないこれでもないと打ち消すかのようにパンフレットを顔の前で小さく振っている。
 どこかヨーロッパのリゾート地を彷彿とさせる外観のホテルの自動ドアが開いて、カウンターでモニターを見ていた男女のスタッフがこちらに頭を下げた。シーリングファンが実用的にまわっていて、肌触りのよい風が肌を冷やす。
 女性のほうが即座に彼がコーパイであることを察して、チェックインの案内をはじめた。その流れで彼はカウンターの上に紙袋と、その隣に眺めていた分のパンフレットを置く。パンフレットの納品です、とチェックイン対応をしていない男性スタッフに伝えると、ありがとうございます、のひと言とともに紙袋だけがカウンターの下へと回収された。
「では、わたしはこちらで失礼しますね」
 彼のなんらかの返事を待たずに身を翻す。自動ドアをくぐる間際、背後で「ありがとうございました」ときちんと整った声が聞こえた。

 店の入口の戸を引くと、古い木の軋む音がして、すぐに味噌と焦がし醤油の香りが鼻をくすぐる。カウンターの向こうで店主が、夏本番になったらその肌色はどうなってしまうのかと不安になるほど浅黒い肌によく映えるまるまるとした瞳を細め豪快に口を開けて、お連れさんもう来とるよ、と笑った。
 グランドスタッフの友人は定時に終業することが叶わず、十八時の居酒屋の予約に間に合わなかった。やっぱダメだったごめん、と連絡が入ったのはわたしがすでにシェアハウスの玄関でサンダルをつっかけているときだった。続けて、かわりの人を召喚した、とあったので、わたしは訝しみながらもそのまま家を出た。
 このお店は島民が来店したら帰りにまた次の予約を入れていくのでつねに満席の人気店だ。かくいうわたしもこの店の食事が島でいちばん好きだ。ただでさえ食の選択肢が少ない島。ここの味はわたしの島暮らしの生命線といっても過言ではない。
 奥のお座敷にしといたよお、と店主の奥さんがにこにこ、というオノマトペが聞こえてきそうな表情をつくってカウンター越しに言った。三つ並んだお座敷のうちふたつの襖は開け放たれていて、テーブルには【予約席】の札ときれいに並べられた割り箸とおしぼりが見えている。
 ――いったい誰を呼んだのだろう。
 移住者組のなかのだれか、ではないと思いたかった。移住者会は定期的に開催されている。しかし集団になると、そしてアルコールが進むとどうしても島に対するネガティブな話題も増える。わたしはあまりその雰囲気が好きではなかった。直接確認したことはないけれど、同じように感じているように思われるのがグランドスタッフの彼女だ。だから、彼女がその類の人間を呼ぶことはないはずだった。
 座敷の下に収納されている靴は空港の近くにあるスーパーの一角でつねに売られているようなクロックスの類似品だった。みんなこんなものを履いている気がするし、だれもこんなものを履いていないような気もした。
 ふう、とひと息ついて襖に手をかけるとクーラーで冷やされた木の枠がひんやりとした。
「ああ、どうも。さっきぶりですね」
 くるりとこちらを振り向いた、まるで三日月が浮かんだきれいな口元にわたしは反射的に半開きの襖をもういちど閉じることになる。
 クレームが聞こえる。観念してすべりのいい襖を開けると、この島の透き通る珊瑚礁の海のような瞳がこちらを見ていた。ほんの一時間ほど前にホテルで別れたばかりの男がそこにいるのだった。
「島でいちばんおいしくて、めったに観光客が行けるお店じゃないし、頼むから代わりに行ってくれって頼まれて来ました」
「それは、彼女の言う通りですけど」
 サンダルを脱いで畳についた右足の親指のネイルが欠けているのがやけに気になった。家を出るときにはすでにこうだったのだろうか。それすら思い出せない。そもそもサンダルで隠されている足の面積は多くないのに、裸足を見られることにも気が引けた。
「よろしければご一緒させていただけないかな、と」
 剥げたネイルを隠したい気持ちが勝り、わたしはそそくさと彼の横を通り抜け、テーブルを挟んで向かい合った。彼はなにも悪くなく、わたしも固辞する理由は見当たらなかった。観光地であるこの地に三年もいれば、初対面でのタッチアンドゴーさながらの会話には慣れている。違うことといえば、この男の面構えがやたらと端正なつくりをしているということだけだ。
「お酒は飲まれるんですか?」
 ペラ一のラミネートされたドリンクメニューを手渡すと「明日は完全オフですし代打にも入りようがないし、飲もうと思って来ましたよ」歌うような声が返ってきた。
 電車やバス、運送業者の人がアルコール検査をするように、パイロットも当然検査があるのだろう。誰かが飛べなくなったときに代わりに飛ぶ人も指定されているのかもしれない。
 ほとんど同時に開けたままにしていた襖のあいだから、生ふたつねえ、とジョッキがふたつと、もずくの入った小鉢がふたつ運ばれて来た。まだ注文してないけどな、と思いはしたけれど、わたしはこの店で飲み物といえば生ビールしか頼んだことがなかった。いつもの、とすら宣言せずに出てきたいつものビールにわたしがこの店に通った回数を思う。そして、彼はひと足先に頼んでいたのだな、と向かいに座ってドリンクメニューをぱたぱたと団扇のように倒している彼にフードメニューを押しやった。
 コーパイさんきれいなお顔しとるよねえ、と奥さんが言って、わたしに視線が寄せられる。
 わたしもそう思う。ただし、とてもではないけれど口に出して相手には言えない。わたしも中高年と呼ばれる年齢になったら、一歩間違えればセクハラになりそうな危うい感想も惜しげもなく言えるようになるのだろうか。
「国内線じゃなくて国際線っぽくないですか? よりにもよってプロペラ機って」
 その結果、角度をつけた偏見を述べることになる。当然わたしに国際線を飛んでいるパイロットの知り合いなどいないので、根拠のない、でもやけにリアリティのある偏見である。
「それはよく言われます」
「言われるんだ」
 これはさすがに口に出ていた。
 いったん勝手に頼みますね、と前置きしてからいつものラインナップである、パイナップルキムチ、あおさ入りのだし巻き卵、島らっきょうの天ぷらも続けて独断でオーダーした。はいよお、と下がっていった奥さんが閉めた襖が空間を隔てわたしたちをいよいよふたりきりにした。
「それじゃあ……」なんと発声すればよいものか一瞬躊躇したものの「お疲れさまです」「はい、お疲れさまです」当たり障りのないところに落ち着ける。ごん、と遠慮がちにジョッキがぶつかって、ジョッキ越しに映るよく知らない男が島でよく漁れるオジサンという魚の描かれたTシャツに着替えていることに気がついた。ホテルのお土産売り場で売っている。彼が自ら購入したのかもしれないし、なんとなく、受付の移住者女が買い与えたんじゃないかな、という発想に至った。これは経験則から、わりと根拠があるほうの意見だ。
「プロペラ機って島民のかけがえのない足じゃないですか。旅行とかの贅沢品じゃなくて」
「あ、はい、まあそうですね」
 急いでジョッキから口を外して相槌を打つ。
「やりがい、ありますよ」
「……なるほど」
「あ、信じてない」
 あはは、と乾いた笑い声をわざとらしく立てた。
 信じる・信じないというより、仕切り直しのジョッキの音でよしとせず、過ぎ去りかけた話題を引っ張ってきてまでそれはアピールしたかったことなのか、というところに驚いていた。
「本島に住んでるってことですよね。まったくイメージがわかないですけど」
 これ以上彼がプロペラ機のパイロットを志した経緯を深掘りするのは怖かったので、ある程度自然と思われる話題転換をする。
 東京とか大阪とかそういった賑やかな場所を彼の背景に想像していたけれど、プロペラ機のパイロットがそんなところに住んでいるはずがない。多少、肌は陽に焼けているような気がする。日焼け止めを塗布したうえで、それでもなお焼けてしまったという印象だ。
 海沿いの街にあこがれがある、なんて澄ました顔で言っていたけれど、彼だってそんな場所に暮らしているはずなのだ。やはりリップサービスだったんだからドライブなんて張り切ってしなくてよかった、と割り箸を引き折ると、左側の箸が深くえぐれた。
「はい。ただ、お察しかとは思いますが地元ではないので寮にいます」
「ああ。そうですよね」大人気ないと思いつつも、あなた“も”島民には到底見えないよとわたしだって言ってやりたかった。「出身はどこなんですか?」
 小鉢に箸をつけながら、ビールに口をつけた彼の手元に視線を上げる。
「答えたくなければ答えなくてぜんぜん大丈夫です」
 島へ流れ着くのはマリンスポーツに取り憑かれているか、訳ありでどこかから逃げ出したかった人だと相場が決まっている――と言うと炎上しそうだけれど、だいたいそんな感じだ。わざわざ島を選んだことの意味づけをこの場で行なった彼には、どちらかと言えば後者の可能性がちらついていて、質問を投げかけておきながら自分のために逃げ道をつくっていた。
「答えたくないってわけでもないけど、なら、内緒にしておこうかな」
 なんだそれ、と心のなかで毒づいてもずくを口のなかに放り込むと、適度な酸味が舌を転がる。
「小さいころからずっとパイロットになりたかったんですか?」
「そうですね。物心ついたころから中学上がるころまでは毎年家族で海外行ってたし、あこがれって感じだったかな」
 この人の言うあこがれなんて当てにならない。それに、やっぱり国際線なんじゃないか、と思った。思って、なんでわたしはこうもこの人に対して攻撃的な感想を抱いてしまうのだろうか、と首を傾げたくなっていた。
「子どものころの、子どもの知識だけで思い描ける夢を叶えた人って、すごいですよね。電車の運転士とかサッカー選手とか警察官とかお花屋さんとか保育士とか、そういう感じ」
 視界の先で襖が開いて、パイナップルキムチがテーブルに置かれて、それぞれにお礼を述べる。入れ違いに彼が手元にあったメニューからラフテーとゴーヤーチャンプルーをオーダーする。食べられるかどうかの確認はされなかった。もしかすると、わたしが勝手に頼んだ分の仕返しなのかもしれない。
「食べたくて頼んじゃったんだけど、島暮らしを選んだ人でこのへん食べれない人とかいないよね?」
 純度百パーセントと嫌味の境目はあいまいだ。
「わたしは食べられますし、好きですよ」
「ならよかった」
 でも、あなたはわたしが頼んだものは嫌いではなかったですか、と問う前に彼は話を続けた。
「絶対になってやる、みたいなだれよりも強い気持ちがあったとかではなかったかもだけど」
 わたしは黙ってパイナップルキムチに箸をのばす。
「大卒の経歴なんてよっぽどのとこ出てない限りは四年間自己管理ができたことの証明でしかないですよね。ただ、航空系の大学はそれにプラスアルファ忙しかったであろう要素がついてくるわけで、教員免許持ってる人らとか運動部だった人らと似たり寄ったりかなって。じゃあパイロットを目指せる大学に行ったとて、もしダメだったとしても不利には働かないな、っていう」
 しゃくしゃく、とパイナップルを咀嚼する音がこめかみに響く。
「高校生のときにそこまで自分の進路を考えられるのがすごいです。わたしなんて奨学金という名の借金背負ってまで何やってたんだろ、って感じだったかな」
「みんなそんなもんじゃないですか。幸い私には姉がいましたし、多感な時期には気のいいお兄さんやお姉さんたちに囲まれて生活していたので、ラッキーだったんじゃないですかね」
「なんにせよすごいと思いますよ」
 彼は自分を必要以上に卑下しないのだろうと思い当たる。そんなことをすれば、やっかみにあったり、押し問答になったりする、ということをすでに嫌と言うほど知っているのだろう。
「海外旅行に行きたいと思ってるんですけど、今まで行った国でどこがおすすめですか?」
「アイスランドはオーロラが街中から見れてすごかったな。シャワーの硫黄の臭いがすさまじかったけど」
 ハワイとかバリとかそういうのじゃないんだ。
 想定の範囲から溢れた国名にとまどっているあいだに、キムチのお皿を引き寄せるのを見て、ああ食べれるんだ、よかった、と安堵する。
「火山が活発で地熱発電なんでしたっけ」
「よくそれが咄嗟に出てきますね。そう、ずっと温泉の臭いしてましたよ」
「オーロラいいですね。人生におけるやってみたいけどちょっとハードルが高いことトップ5にランクインしてるけど」
 オーロラが見られるとされている国は軒並み遠くて腰が重い。それに、行ったところでかならず見られるという保証もない。日本にだって寒くて雪が降る地域はあるじゃないか、高緯度だから見られるんじゃないかと調べたら、北海道や東北でも見ることができないこともないらしい。でも、ほぼ不可能だ。特徴は似ているのに、オーロラという特別なオプションがついていてうらやましいと思っていた。
「たしか日本からアイスランドって直行便ないですよね」
「ないですね。フィンランドに数日滞在してから移動しました」
「フィンランドでもオーロラ見れますよね?」
「まあ見ましたよ、フィンランドでも。オーロラは」
 いたずらっぽく笑った目尻に、この人がなにを重要視して生きているのかを思う。あくまでも“おすすめ“はおしゃれなイメージのフィンランドではなく、硫黄臭いアイスランドということね。もしくは“わたしへのおすすめ“。
「どうしてここで暮らそうと思ったんですか?」
 今度はわたしのターンか、と悟られないように身構える。わたしは嘘をつくのが得意ではない。だから、正直に話す。無理に嘘をつこうとはしない。ただ、トリミングはする。
「旅行で来たときに知り合った海外出身の奥さんと日本人の旦那さんと親しくなって、それで、移住を決めたんです」
「もともとどこか移住先を探していて、ここが候補だったの?」
「今考えるとそういう意識もあったとは思いますけど、有力候補ではなかったですね。あんまり島暮らしのイメージはできなかったかなあ」
「じゃあ、人生を変えるようないい出会いだったんですね」
「そうですね。ただ、もう彼らはここにはいないんですけどね」
 すっと襖が引かれて店内のざわめきがくっきり聞こえるようになる。
 だし巻き卵と天ぷら、そしてラフテーがリズミカルに配膳されるのを横目に、わたしはビールを煽って、奥さんにジョッキを手渡す。おかわり? と促す声にうん、と頷くと、もうひとつのジョッキも回収して、同じやりとりが行なわれた。
「このあたりの違う島に移動したとか?」
 とりわけ愉快な話題でもないと思うし、会話に区切りはついていたように思う。中断された会話をもう一度引き戻すことは、彼が日ごろ意識的に行なっているのかもしれない。あなたの話を聞いていましたよ、覚えていますよ、とこちらへ伝えるために。
「離島って、自殺志願者が死に場所を求めて来ることがわりとよくあるんですけど」
 受け取る相手によって威力が変わる単語を選んだので、そっと様子を伺う。とくに表情に変化や、嫌がるそぶりがなかったのでそのまま続けることにするけれど、彼は相手に理解されるほどわかりやすく感情の変化を見せることはなさそうだった。わたしのようにそこに甘える人は、たくさんいるんじゃないだろうか。
「そういう人たちへの支援みたいなことを将来的にはやりたかったみたいで。けど、なかなか土地も買えないしあんまり理解も得られなくて、つい最近奥さんの国に帰っちゃった」
「島は開放的っぽいけど、閉鎖的なところも結構あるか」
「しかたないですよね。そもそも住宅も足りてなかったりしますし。わたしもいまだにシェアハウスに住んでるくらいには」
「えっ、そうなの? あれ、こっちに来て三年って言ってたよね」
「ホテルの仕事してたときは寮があったけど、辞めてからはそこにいるわけにもいかずで」
「ホテルって、おれが泊まってるあのホテル?」
 首を縦に振ったところでビールが届けられて、わたしたちはそろってひと口を飲んだ。
「半年前くらいまで。ここで宿付きの仕事といえば、宿泊施設と空港スタッフしかないから、たいていの移住者はホテルか民宿か空港にいる」
 この島で今いちばんお世話になっているマリンスポーツのインストラクターの夫婦には、家の一室を貸すよ、と何度か打診されているけれど固辞しているところだ。じゃあこのままシェアハウスで暮らすのか? 一体、いつまで? と、考えることは一旦放棄している。
「今日の受付の子たちは、辞めたあとに入ったの?」
「知り合いですよ。三か月くらいは一緒に働いたかな」
 定型文みたいな会話しかしていなかったのだから、そう思われてもしかたがない。同時に、これが、仲良く見えなかったけど、といった類の嫌味だったとしてもそういう発想が出てくるところが、彼はここでの暮らしを理解しているようでしていないのだと感じる。仮にわたしが辞めたあとに彼らが働きはじめていたとして、半年も経っていて一度も邂逅をせずに生活をするなど不可能に近い。それが離島のコミュニティだ。
「ごめんごめん、意地悪言った自覚はある。ああいう感じとは折り合い悪そうだ」
 不思議と、あなたが一体わたしのなにを知っているというんだ、とは思わなかった。
「あとゴーヤーチャンプルーが来るけど、ほか、なにか頼みます?」
 腰を浮かせ、五つ盛られているラフテーを小皿にふたつ分けて引き取る。
「あーっ! やっと聞いてきた!」
 よろこんでいるような、いっぽうで呆れ返っているような声が響く。
「……やっぱり根に持ってた?」
 食べやすいようにひとつをさらに半分に切り分けようとしていた箸を止めてそっと視線を持ち上げた。だってさあ、ときれいに巻かれただし巻き卵をひとつつまみ上げている。
「普通聞くでしょ。食べたいものあるかとか、食べれないものあるかとか」
「ちょっと緊張してたし、わたしがこう、率先してやらないと、と思ってちょっとミスりました」
「はは、かわいい」
――あげる。
 ぬっと伸びた長い腕が、わたしの目の前の小皿にラフテーをもうひとつ乗せて、ふたつ残った大皿を自分のほうへと寄せたのを見ていた。

「うわっ、暗っ」
 二時間制の飲食はあっという間で、正直に言うと物足りなさに後ろ髪を引かれながら店を出た。彼との会話が心地よかったことは否定しないけれど、シンプルにわたしが一度飲むと長い、というだけの話でもあった。
「星空を見せるために街灯がほとんどないから、観光のためにってのはわかるけど住民の生活は? ってちょっと思う。月があればもっとずっと明るいけど、今日は曇ってるから」
「本島の観光地では考えられないな」
「あそこはあのきらびやかさと騒々しさが売りだからね」
 とっくに日は落ちていて、少し店から離れるといよいよ街灯も申し訳なさ程度にしか設置されていないこのあたりは比喩表現でもなんでもなく、暗闇になる。わたしはポケットからスマートフォンを取り出してライトをつけた。照らされた道路の細かい凹凸に白線が浮かぶ。
「ホテルまでは歩いて二十分くらいかな。タクシーはこの時間だと呼んでも来ないと思う」
「来るときも歩いたから大丈夫」
「あ、そっか」
「観光地もいろいろだね」
「そうだねえ。今年海外は難しいと思うから、国内旅行に行きたいなあ。国内はどこかおすすめある?」
「国内はあんまり行ったことないんだよね」
「海外専門なんだ。かっこいー」
「中学までだけど」
「高校からはよっぽど忙しくなるもんね」
 でもお姉さんがいると言っていた。お姉さんがいくつ年上なのかもわからないけれど、お姉さんは高校生になっても海外旅行へ行っていたんじゃないだろうか。
「まあそれもあるし、近場から飛行機が飛ばなくなったってのもある」
 アルコールでふやけはじめている頭がふわふわと勝手に考えはじめる。
 とりわけ田舎というわけではない。それでも飛行機が飛ばない、いや違う、かつては飛んでいて、飛ばなくなった街――
「もしかして、三門あたりの出身? 何年か前に空港、営業再開したよね」
「うん、そう。落ち着いたから」
 実家だったか、ひとり暮らしをしていたワンルームだったか、違う、隣に当時付き合っていた彼氏がいた。大学生のころだ。彼と缶ビールを開けてなんとなく眺めていたドキュメンタリー番組。わたしは真剣に見ていることを気取られないよう、注意深くそれを見ていた。
 三門市民や疎開した人たちのインタビューもあったけれど、あの番組では三門市を防衛していたボーダーと呼ばれる組織の人間にフォーカスが当たっていた。働いていた子どもや当時のわたしと同じ大学生などの生活や、ボーダーの機能は外務省や防衛省、自衛隊などに移管されたことなどが紹介されていた。
「こっち、海だよね?」
「え? あ、うん」
 隣を歩く恋人ではない男の指さす方向をライトで確認して肯定する。今は使われていない旧漁港を照らしている街灯の光がぽつんと数十メートル先でちかちかしていた。
「浜辺」
「え?」
「浜辺、歩いてもいい?」
「それは、いいけど」
 どこから下に降りられたっけ、と脳内で地図を広げたものの確証はなく、アスファルトの道の奥に向けてスマートフォンを向けると、どこかの芸術家がつくったというわたしには機微が理解できない胸が丸見えの女体の銅像が照らされた。なんとなく気まずくライトを下げたところで、その先に浜辺に続く階段があったことを思い出し、もう少し舗装された地面で勘弁してほしいことを告げた。
「なんでああいう銅像の女の人って洋服着てないんだろうね」
 銅像を追い越すタイミングで疑問を呈される。
 この男は、わたしの行動を見逃してはくれないらしい。きっと今、隣に向かって端末をかざしたら、腹の立つ表情が見られるに違いない。
「女なんて脱がせたらみんな同じ、っていう思想の男がつくってるんじゃない?」
「それは男だって同じじゃない?」
「さあね」
 降りますよ、と顔ではなく階段に光を当てる。二十段ほどの階段を踏み外さないように一段ずつ降りて、珊瑚礁の砂浜を踏み歩く。日中は白く輝く白い砂浜も、夜は黒く塗りつぶされてしまう。
 歪なふたりの影が奇妙で、なんとなく立ち止まり、ライトを消した。ただ静かな重たい闇が広がっていることだけがわかる。
「本島もそうだけど島の海って、海の匂いがしないよね」
 彼は驚きもせず、文句のひとつも言わずに感想を述べた。
「磯の香りみたいなこと?」
「そうそれ」
 本州出身のわたしたちが脳内に描く海と、ここの海はたしかに違う。でも、この島の人たちにしてみれば、ここの海が海なのだ。海というひとつの単語を提示したときに、見える色や聞こえる音、五感のイメージが異なるのは、おもしろくもあり、切ないことなんだと思う。
「風もベタつかないし、波もぜんぜん穏やかでさ。見えないと、ここに海があるって信じられない」
 ふっ、と隣から気配が消える。
 反射的に腕を伸ばしてしまって、それをどうするのだ、と思い直してただぶらぶらと空を切る。
 彼が海へ、闇へ、吸い込まれて行ってしまいそうで怖かった。
 急いでライトをつけ直すと、彼はほんの人ひとり分程度だけわたしの前で立ち止まっていた。
「ほんとうはさ」
 暗闇に転がった声が囁くような波音にさらわれていきそうだった。聞き返して引き戻したい気持ちと、そのまま流れていってほしい気持ちのあいだでわたしは口を開けられずにいた。
「本島の繁華街は観光客だらけで人がすぐ入れ替わるし、ターン運航だと必要以上のコミュニケーションは求められないし」
 ああ、島から島にすぐ飛び立つあれってターン運航って言うのか、と場違いに感激する。
「それが、おれにとっては、いいと思ったんだ」
 おまえはこの場限りの人間であるからこそ、おれはそれっぽく雰囲気やお酒に酔ったふりして感情を吐露することができる、とでも言っているようだった。実際そうなのだろう。島で行われる観光客との行き当たりばったりのコミュニケーションは二分化される。無礼講のバカ騒ぎか、このパターンだ。
「わたしは」
 自分の口から出た声に喉の奥だけで動揺する。
「雪が嫌で南に来た」
 流されてわたしも話すのか? とわたしはわたしに確認をする。そこそこ頭は冷静で、近くの民家で鳴っている風鈴の音を聞き取っていた。
「でもじゃあ、海がすごく自分に合うってわけでもないとは思ってるけど、まあそこはいろいろ試していくしかないのかなとは思ってる」
 彼はなにも言わなかった。自分が吐き出してしまった言葉を後悔しているのかもしれないし、マウントを取られて勝手に自分語りに書き換えられたことを怒っているのかもしれなかった。Tシャツにプリントされたオジサンだけが間抜けな顔をしてわたしを横の目で見据えている。
 ――いずれにしてもわたしとあなたは今日限り。いつものようにわたしはすぐに忘れてあげられるから大丈夫だよ。
「このまま歩いて次に出てくる階段を上がったらホテルの裏手に回れます。明日は晴れるみたいなので、星も見られるかもしれません。ご存知のとおり、島の天気予報は当てにならないですけどね」
 そう言う代わりに勝手知る現地民らしく彼にとって有益な情報を淡々と授ける。
「それじゃあ、おやすみなさい」