水槽の臭いがする、と思った。
 父と母とお祭りに出掛けた時のことだ。人ごみの中、当時小学校低学年だったわたしが両手を広げたくらいの大きさのプラスチックの箱の中で十匹以上のカメが動き回る光景に目を奪われてしまったことをよく覚えている。決してカメが好きだったわけではない。ただ、子どもながらにすくう対象が金魚ではなくカメであったことに衝撃をうけたのだ。
 わたしは、普段両親に“わがまま”に繋がりかねない“お願いごと”を言うことは少なかったのだが、その時ばかりは父に「カメすくいしたい」と言い慣れない単語を口にした。父はカメたちの隣に置いてあった“一回500円”と書かれた看板を一瞥するとすぐにわたしに向き直って「あとでリンゴ飴買っちゃる」と言ってそれ以上足を止めることはなかった。わたしはリンゴ飴が好きではなかったので、帰るまで父と口をきかないことにした。
 翌日、夕食の準備の手伝いをしていたら玄関から父がわたしの名前を呼ぶのでリビングと玄関とを繋ぐドアを開けると、靴を脱ぐ父親の手にはカメの入った透明の袋が握られていた。どうやら父はリンゴ飴の代わりにペットショップの水槽の中の一匹をわたしのために購入したようだった。
 “人の気持ちを汲んで言動を考えるように”と常々教えられてきたわたしは「カメが飼いたかったんやなくて、カメをすくってみたかっただけやし! 分からず屋!」とは、とても言えなかった。わたしは父にカメの世話をすることを約束させられた。

 そう、水槽の掃除をサボった時のあのひどい臭いを思い出させるのだ、とアスファルトにボタボタと落ちる雨音に紛れるように、学部棟の屋根の下で突っ立って記憶を手繰り寄せたのはいいが、生憎わたしは傘を持っていなかった。
 さて、どうしようか。
 ジーンズ生地のスカートの右ポケットに手を入れてスマートフォンを取りだしたところで、状況は変わりやしなかった。ディスプレイは17時57分を表示していた。
 ウィーンと音をあげて開いたり閉まったりしているドアを振り返ったが、知り合いの顔は見られなかったし、はじめから期待はしていなかったけれど、見ず知らずの人に声をかける勇気と気力が湧いて出てくることもなかった。
 水槽がこの空間であるなら、わたしたちがカメってことになるぞ。
 もう一度じいっと地面と空の空間を睨む。土砂降りではない、そんなに強くはない、でもやっぱり降っていることには変わりなかった。
 意を決して右足を一歩踏み出すと、背後から右肩を叩かれた。わたしはまた後ろを振り返らなくてはならなくなった。
「よっ」
「あらどうも、荒船くん」
 彼の右手には紺色の傘が握られていた。どうぞその傘をわたくしめにお貸しくださいまし、と手を合わせる。
「入れてやるからちょっと付き合えよ」
 現在時刻を思い出しながら、ああとかうんとかへえとかはあの間のリアクションをとったら、荒船はそれを了承だと認識したようで傘を開く。
 それはもしかして相合傘をするということですかねと確認する間は与えられなかった。






「わたしだって、長く、何年も一人の人と付き合いたい!」
 共通の友人カップルの恋愛話になり、彼らは中学生から付き合っているのだという純愛に、わたしはおおげさにテーブルを叩いた。ジョッキにそそがれたビールがゆれる。
は、これでもかってくらい、わかりやすく愛情表現をしてくれる人と付き合わねーとな」
 そうしてわたしの荒れた恋愛事情を知っている荒船は提言するが、わたしは聞く耳をもたない。いつものことであった。
「でもそんなの、おもしろくないよね」
「自己肯定してもらうことが恋愛の醍醐味なんだからそれでいいだろ」
「じゃあ、“わたし、彼氏にこれだけ愛されて、幸せいっぱいなんですぅ”っていう大学生の女の話に、友人が耳を傾けてくれると思う? 大衆受けする? 飲み会にふさわしい?」
「さあ。でも、少なくとも映画にはならねぇな」
「そういうこと」
 店員が運んできた揚げだし豆腐を箸で崩さないようにそっと挟む。
 映画にならない。それは、そのストーリーに悲劇がないからだった。
 悲劇のない人生を描いてもそれはドラマには成り得ない。ここでいう悲劇というのは“雨の日に傘を忘れた”とか“やっぱり揚げだし豆腐を崩してしまった”とか、そういうことではない。
 仮に、わたしが先週家族を事故で亡くして憔悴しており、さあ今からわたしも死んでしまおうとした時に、傘のないわたしを無理矢理居酒屋に連れてきて荒船がわたしの気持ちを変えさせたのであれば、それは、ドラマになるだろう。うーん、ありきたりすぎてならないかもな。
「でも、俺は“わたしこれだけ愛されて幸せいっぱいなんですぅ”っていうの話を聞きたいと思うけどな」
 くしゃっと目を細めて笑ってから荒船はビールに口をつけた。まれに顕在するこの笑顔にわたしはいかんせん弱い。
 荒船がもう一度口を開くのをじっと待っていたけれど、ただビールを流し込む作業を続けるだけだったので「物好きだね」と一言だけ呟いて、わたしもジョッキに手をのばした。
 たいした悲劇のないわたしの人生を語ることは、他人を不幸にすることもなければ、幸せにすることもない。水槽の中で餌を与えられることだけを待っていたカメとわたしではどちらが退屈でないだろうか。
 でも、かなしいことやつらいことが極力ない人生のほうがしあわせだという一般論もちゃんと理解しているつもりだ。
 左隣に置いていた鞄の中でスマートフォンが振動していることに気が付く。画面に表示されている母の名前を確認してスライドした。
「はい。ごめんごめん。うん、雨。でももうすぐ止むと思うけん。うん、あーね。いや、うち狭いけんホテル泊まってもいいっちゃない? うん、うん。じゃあまたあとで」
 通話を終了して、改めて画面を見れば父からも一通メッセージが届いていた。
 そういえば荒船に会ってからスマホを触っていなかったのだった。親が今日来ることを、数時間前まではちゃんと覚えていたというのに。
「親御さん?」
「正解。お父さんとお母さんが数日こっちに来るの。傘ないみたいだし、迎えに行こうかな」
「じゃあ、俺も迎えに行くか」
「なんでよ」
「ほら、結婚の挨拶しておかねーと」
「はっ。意味わからん」
 だれとだれの結婚だよ。その流れではわたしの両親に荒船が結婚の申し入れをすることになってしまう。しゃれてない冗談を、荒船も言うんだなあ。
 そういえば巷では交際ゼロ日婚というものが話題になってるとか。そりゃあドラマチックだわね。あ、迎えに行くと言ってもわたしも傘ないじゃない。コンビニでビニ傘買うかあ。
 ぐっしょり汗をかいたジョッキの中身をすべて飲んでしまってから鞄を持って席を立った。ついでに、テーブルの端っこに置かれていた伝票が挟まったワインレッド色のバインダーも取ろうとしたけれど、荒船の右手がわたしの手首をつかんでそれを制した。