1
何度目の飲み会か。
大手出版社へ編集者を志し新卒で入社し、早五年。一年目のころから、わたしはあの手この手を使い編集部の飲み会に参加している。
今日も飽きずに顔を売るべく編集部の新年会に紛れ込んでいるわけだけれど、もはやここ数年はわたしからのお願いではなく、編集部の先輩やお偉い方から積極的なお誘いがあるので進展しているとはいえる。わたしの異動の件ではなく、飲み仲間としての関係が。わたしはロビー活動の成果をあげられず、いまだに営業部で日々駆けずり回っているわけである。
お手洗いから戻って来ると、座敷のわたしの座布団の隣には見慣れぬ眠そうな眼鏡の男の子がいた。もともとこういう顔なのかもしれないし、めちゃくちゃ疲れているのかもしれないし、すでにかなり酔っているのかもしれない。
暖房のきいた室内と適度を超えたアルコールでほとんどすべての人間の顔は林檎のようであるけれど、彼もまたぽかぽかとぬるそうな頬をしている。
「赤葦はヴァーイの担当。文芸志望だったんだけどな」
「へえ。そりゃ災難」
赤葦と呼ばれたその子を挟んで同期の男がわたしに彼を紹介する。
赤葦くんはこの四月で二年目になるという。わたしの数年の社歴統計的に、たしかに彼は文芸組の顔はしているけれど。それでも解せぬ人事が行なわれるのが会社である。世知辛い。
わたしが入社したころ、新卒は営業からスタート! よーい、ドン! で二年、三年、なもんだったのだけれど、新卒で編集部に配属されている子もいるなんて。
「こいつはこう見えて営業成績トップを奔走し続けている、ほんとうは編集部希望のだ」
「です。よろしくね、赤葦くん」
よろしくお願いします、と赤葦くんはこちらへ頭を下げた。なぜか、土下座でもされるんじゃないだろうか、と思った。それくらいの丁寧さを感じる。
「……営業でわかりやすく結果を出してしまったら、異動はより難しくなるんじゃないですか」
顔を上げた赤葦くんは充血した瞳をわたしに向けていた。かわいそうに、やはり眠れていないのかもしれない。
彼もいずれは自身の希望する部署に異動をしたいのだろうと思う。今置かれている自分の場所に不満があるのかもしれない。置かれた場所で素直に咲ける花はそうないのである。それならば、先輩社員として格好つけておかねばなるまい。
「泣かず飛ばずの一営業部員と、トップを走り続けた優秀営業部員の異動希望、どちらが前向きに通ると思う?」
まあ、こうして五年勤めても営業部なんですが! わはは! と必要以上に笑えば、ぱちぱちと目が瞬かれる。
「……すごいですね。仕事ができて、人望があって、きれいで」
赤葦くんは淡々とそう言った。
「きれいで?」
オウム返しするわたしに同期はおしぼりを投げつける。
「赤葦は営業に営業してんだよ! それにどっちかっつーとおまえはかわいい系だろ!」
「いやはや……もうみんなそんなお世辞すら言ってくれないから新鮮で!」
「愚かなり、……」
投げ返したおしぼりはあらぬ方向へと飛び、同期のジョッキの海に墜落した。わたしは悪くない。
「いえ……すみません。間違えました」
ぎゃあぎゃあと文句を垂れる同期を背後に、赤葦くんは自身の発言をやり直すらしい。わたしのぬかよろこびだったか、とその溶けてしまいそうな目元を見る。
「間違いでもないんですが。お忙しいのに、きれいに保とうとしているところがすごい、ということです」
赤葦くんは眼鏡を外して、ポケットから取り出した布でレンズを拭いている。
アラサーに対して喧嘩を売っているようにも受け取れるが、今日のところは無礼講だ。
「いいね、赤葦くん! 君の担当する先生の単行本が出たときは任せなさいよ!」
がちーん、とジョッキを一方的に鳴らせば、赤葦くんは頼りなさそうに笑っていた。
2
「さん」
「おお、赤葦くん」
小走りで駆け込んだリフレッシュルームのハイチェアに座っていた赤葦くんは、口元に添えていたマグカップをデスクに置いた。
「今お時間は……ないですね」
「ご明察! ごめん、ほんとに急いでて!」
タイムマネジメントに課題のある後輩のプレゼンが押した。四〇分後のアポは新規で任された営業先なので遅刻は勘弁願いたいところである。配車アプリで呼んだタクシーはあと三分で到着する。しかし、わたしはそれまでにどうしてもカフェインを注入したいのだ。
自動販売機に右手でICカードをタッチしてホットの缶コーヒーを選択する。がこん、と落ちてきた缶を拾い上げるやいなや右脚を踏み込んだわたしに、
「冷蔵庫の、よかったらもらってください」
「お、リポD? チョコラBB? それともレアなオロナミンC〜?」
よく編集部や営業部は差し入れに栄養ドリンクの類をいただくことがある。わたしはオロナミンCがすきなのだが、あまりもらえることはない。
「あとでいただくわ! ありがとー!」
赤葦くんの返事を待たずにわたしは廊下を駆け抜ける。背後で少し張った声の「いってらっしゃい」が聞こえたので、振り向かずに片手を上げて振った。
直帰予定だったけれど後輩にどうしてもと頼みこまれた案件のために、あってない定時を過ぎてはいたけれど帰社した。とりあえず五分休憩させて、と後輩にお願いしたところで、あっ、栄養ドリンク。と思い出した。
冷蔵庫のドアを開けるとお菓子や飲み物、お弁当、ついでになぜか缶ビールや酎ハイなどが詰め込まれている。わたしはこの無法地帯が正直すきではない。
栄養ドリンクは右側のポケットにずらずらと並べられているものであろう、と一本取り上げる。その視線の横で、わたしはわたしの筆跡ではない「」と書かれたポストイットがブラウンの上品な紙袋に貼られているのを見た。どきっ、と心臓がはねる。
わたしと同じ苗字の社員もいるかもしれないけれど、さすがにフルネーム一致は、わたしだろう。──もしやこれは、赤葦くんからでは。
違ったら戻しますので、と心の中で手を合わせ袋の口を人差し指で引っ張ってちら、と見ればリポDとチョコラBBと、なんとオロナミンCが入っていた。あと、見落とせないくらい重厚感ある小ぶりな箱が鎮座している。
袋ごと取り出して、ドアを肘で閉める。袋をハイテーブルに置き、箱を取り出してすぽっ、と蓋を開ければカラフルな小さい球体が八つきれいに並んでいる。
知ってる。惑星をイメージしてつくられている有名なチョコだ。これは、まあまあそこそこいいお値段がする。
そうしてはた、と思い当たる。絶賛、【バレンタインデーなんて企業の戦略には乗らん、という強い意志(ひねくれ)をもった女フェア】なんて強引な小説特集を書店で行っている最中。
これは、赤葦くんがどこぞの女にもらった、バレンタインデーのチョコレートに違いない。
なんて無粋な! 職場の女の先輩の差し入れに使いまわすんじゃない! しかも栄養ドリンクのついで扱い!
社内アドレス宛に「愚かなり、赤葦……」とメールを出してもよかったが、そこまでフランクな仲でもない。社用携帯でメールアプリを起動してTOからアドレスを検索する。akaaまで打ち込んだら出てきた赤葦京治宛に「赤葦さん、お疲れさまです。冷蔵庫にあったもの受け取りました。ありがとうございました!」と、送信。
せっかくなので、チョコレートはこれからともに業務に励む後輩と食すことに決めた。栄養ドリンクとの相性は悪いので、コーヒーを買って行ってあげよう。
3
「さん」
九時五時の事務員はとっくに帰宅してしまったけれど、まだ煌々と明かりが灯されているオフィスのエントランスに安心感のある低い声が響いた。
「おっ、赤葦くん! 今帰り?」
バックパックを背負っているので、どうやら赤葦くんも今日はそれなりに早めに切り上げられたらしい。もしくは、これから担当の漫画家のいるところへ向かうのか。
「はい。さんもですか」
「うん。このあいだは、なんだかたくさんの献上品をありがとうね。後輩とありがたくいただきました」
赤葦京治宛で間違いないはずのメールに、赤葦くんは返信を寄越さなかった。まあ、いちいち拝受しました系のメールに返信するかと言われると悩むところではあるけれど。
「とんでもないです。それで、お返しとかないんですか?」
「……お返し?」
差し入れに対してお返しをアピールされたのははじめてのことだった。
がめつい! 差し入れというのは善意でなくてはならないと相場が決まっているものだ。もちろん、取引先であれば関係性の継続等の見返りを求めてはいるのだけれど。
「赤葦くんは見返りを期待するタイプなのかね? そういう赤葦くんこそ、あのチョコをくれた女性にお返しはしたのかね?」
赤葦くんは不満をあらわすように眉根をきれいに寄せた。
「いいえ。あれは、もらいものを処理してもらったわけじゃないですよ」
「というと」
「俺からさんへのバレンタインデーでした」
──なんと。それは。まあ。
今日、企画書に打ち込んだ日付を思い出す。3月14日。なるほど。お返し。ホワイトデー。
ふたつの瞳がわたしを呆れたように見据えている。いやいや、そんな、ちゃんと宣言して渡していただかないとわかりませんって。
「……でしたら、これから飲みにでも行きますか? お返しに、奢りますので」
ポケットから取り出したスマートフォンの時刻を確認する。終電にはまだ時間はある。
「菜の花のからし和えを食べられるところがいいです」
「……なんて?」
「俺、知ってますから、そこにしましょう」
「あ、はい。よしなに」
では、と迷いなく脚を進めて赤葦くんは自動ドアをくぐるので、それに続く。
オフィスビルの隙間に、まあるい月がのぞいている。後輩と呑気に「高級な味がする……」と口に運んだチョコレートのかたちを思い浮かべる。愚かなり、わたし。
この流れでは、お金でお返しはさせてくれないかもしれない。じゃあなにで返すのかと言われても、知らないけれど。
後悔しても反省してももう手遅れなので、わたしはコートのポケットに手を突っ込んで、おとなしく赤葦くんの隣に並んだ。