エントランスに鎮座する巨大なモミの木が、巻きつけられた電光でその存在をさらに誇張している。
「明日、泊めてくんねえ?」
片耳と肩でスマートフォンを挟んでオートロックを開錠し、エレベーターのボタンは押さず一階の角部屋まで直進して、ドアの鍵穴にキーを入れてぐるりとまわす。
「ホテルを取りなよ、高給取り」
NRCでの四年間を、飽きずにほとんどすべての時間連み続けた悪友のひとりであるエース・トラッポラは「まーね」と、〝高給取り〟の部分に対してまんざらでもない様子だ。
「ダブルブッキングしてたみたいで、オレが身を引いてやったってわけ。土曜日だし、結構埋まってるっぽくてさー」
スマートフォンを手に持ち変え、片脚を振ってパンプスを脱ぐ。かつん、とヒールが床に当たって音を立てた。
卒業後、カレッジには進学せず薔薇の王国に戻ってから、エースは毎月のように各地、各国を商談(および遊び)などで渡り歩いている。
器用な男だとは自他ともに認めるところだったけれど、まさかまともに就職したことには驚いたものだった。
オンボロ寮から、たまにわたしの自宅へと勝手に遊びにくる(不法侵入)ゴーストのひとり(地縛霊かと思っていたけれど、そういうことでもなかったらしい)がわたしの帰宅に合わせてヒーターをつけるのを横目に「まあ、いいけど」と、答えれば端末の向こうで歓喜の声があがり、苦笑いがもれる。
「んじゃ、明日十九時……あ、そーそー。ひさびさにあの店のグラタン食いてーんだよなあ」
あの店、とは二年生のころにエースとデュースと買い物をしたあとにたまたま入った小さな飲食店のことだ。メニューにグラタンしかなくて、三人して目を丸くさせて視線を合わせたものだった。
「じつはあそこ、先月に潰れちゃったんだよね。マスターがご高齢で、跡取りもいなくて」
「マジで!? 残念すぎぃ」
それから麓まで出る機会があれば、そのたびにとは言わないけれど、数回に一度、三人であったり四人であったり、面子や人数を変えつつ足を運んだ。エースが残念がるのも無理はない。
「だよねー。ま、とりあえず明日ね。古本屋の前でいい?」
「おー、よろしく」
ぱちぱちと弾くオレンジ色の光をながめながら、音を拾わなくなったスマートフォンをダイニングテーブルに置く。
ゴーストにエースだと伝えれば、ゴーストは馴染んだ名前に、おそらくはわたし以上に顔をほころばせた。
待ち合わせ場所にあらわれたエースを見て、そういえばいつぶりに顔を合わせたのだっけ、と指折り数えたくなった。
前回会ったのはまだ暑い時期で、いろいろとタイミングがよく、エースにデュース、それからリドル先輩とトレイ先輩とも会うことができた。前々回は、ケイト先輩とエース。その前はもう忘れてしまったけれど、少なくともエースとふたりで、というのはさらにもっと前のことだった。
ういーっす、ひさしぶりぃ、といつもの調子のエースを路地裏に連れ込み、そのまま住宅地に案内する。行き先を告げぬまま、わたしは大きな一軒家のドアベルを鳴らした。
「なに、ここ隠れ家的なレストラン?」
「ま、そんな感じかな?」
ドアのあいだから顔を覗かせた、恰幅のよい白髪の男性を見るなり「おっちゃぁん!」と、エースは声を上げて、ほとんどおっちゃんことマスターに飛びかかった。
「せんせー!」
それと同時に、わたしの元へは小さな子どもが足元に突進して来た。
わたしが現在受け持っているエレメンタリースクールのクラスの子のひとりが、今わたしの足元にしがみついている、マスターのひ孫だった。
わたしはNRC卒業後、カレッジに進学し、エレメンタリースクールの教員免許を取得した。
幼稚園で先生にやさしくされたから幼稚園の先生になりたい、と目をかがやかせる小学生と同レベルの発想を自分がすることになるとは夢にも思っていなかった。
小学生のように、親族以外のおとなを先生しか知らないわけではなかったけれど、でもそもそも16とか17で出会うおとなには限りがあることは否定できない。わたしはNRCで出会った何癖もある教員たちのようになりたかったのだ。わたしも子どもを庇護し鼓舞し、いざというときに背中をそっと押せるような人間になりたかった。
それを決めてからはたいへんだった。
わたしの経歴についてではない。これはどうにでもなる。なぜなら、説明するまでもなく、あの学園長がバックについていたからだ。
わたしはこの世界の義務的な教育を終えていないため、エレメンタリースクールやミドルスクールの内容はそもそも自分の国でおおかた履修済みではあったけれど、根本的な学問の知識量に問題があった。
国語算数理科社会という平たいくくりで言えば、理数については許容範囲だった。これは世界共通らしい。とりわけ理科については錬金術で基礎もやっていた。
残る教科。わたしの知る歴史は魔法史に偏りすぎてはいたけれど、あらかた理解が追いついていた。地理はまあ、覚えれば済んだ。
ところが、語学だ。これに関しては日々魔法の力で不自由していなかったけれど、お勉強となると話は違う。これはほんとうに一から学ぶ必要があった。
とくに絶望したのは、死にかけの公用語だ。賢者の島周辺にはわたしたちが普段使っている言語以外に公用語がもうひとつあり、山奥へ行かない限り日常的に使っている生き物はいないのにしっかり受験科目で、教員を志すうえでは避けて通れないものだった。なぜなら、その瀕死の公用語はエレメンタリースクールとミドルスクールでかならず習うものだからだ。
進路を定めた三年の中盤からは、飛行術の代わりにしていた体力づくりや、ない袖は振れない実践魔法などの授業時間は受験勉強に充てることを許された。
インターンの合間に戻ってきたリドル先輩、アズール先輩は実家に残っていた歴代のノートを持ち寄ってくれた。
ケイト先輩はお姉さんたちが使っていた赤本を。トレイ先輩はリアルタイムで学校へ通うきょうだいたちの参考書のコピーや、彼らが受けた統一テストの用紙などをくれた。
ある夜、宅配ゴーストが夕焼けの草原の王室で使用されている教材一式を届けにきたときには、グリムと涙が出るほど笑った。
ひとしきり笑い転げたあと、ノックもせずオンボロ寮に入ってきたエースがぎょっとして大丈夫か、と涙をぬぐうわたしに駆け寄って来た。
愉快で笑っていたはずなのに、じわじわあふれてきた感情が押し出されるようにして、本格的に泣いてしまったことを覚えている。
もう、受からないとどうなったものか、わからなかったのだ。与えられる無償のあれこれが、恐ろしかった。心の底からただよろこべたものは、エペルからの差し入れのリンゴジュースくらいだったかもしれない。
蓋を開けてみれば、奨学金を得るため学園長の差金で推薦入試となり、面接と小論文を除いて試験は不要だったのだけれど。あの時間のおかげで、なんとかカレッジでの単位を死守でき、人さまに教えられるまでになったのだ。
それに、わたしの血の滲む努力を直近で見ていたからこそ、学園長は確証を得て、その道を提示したのだ。なにも無駄ではなかった。すべてのことは、つながっている。
少し早いホリデーで、マスター、マスターの奥さん、ふたりの三人の子どものうちのいちばん上のお兄さん夫妻、そのひとり娘と夫、その娘(わたしの教え子)が、マスター夫妻の自宅に集まっていた。
一家団欒を文字通り邪魔しに来たわたしたちを、誰ひとり邪険にすることはなく、わたしたちは食卓に用意されていたグラタンを食した。わたし用は牡蠣グラタン。エース用は海老グラタンだ。
四年生になってからの生活は、ほんとうにきつかった。みんなのいない学園、グリムもいないオンボロ寮でひとりずっと勉強をしていたのだ。
そりゃ、ゴーストはいたけれど。そしてゴーストたちも年の功でいろいろ教えてくれたけれど。もちろん、先生たちも。
そんな孤独の合間にわたしを支えてくれていたのが、マスターと、マスターのつくるグラタンだった。
おふくろの味、なんて、理解する前にお母さんとは離れてしまったけれど、それがあるとするならばこのグラタンに似ているのだろうと思う。そして、このグラタンが、わたしにとってのそういう味になったのだろう。
感嘆の声をあげるエースと対照的に、わたしは一丁前に感傷に浸っていた。それは、それこそ隣に座っている旧友の影響が色濃い。
「エースは、先生のダーリンなの?」
エースがマスターと、マスターの奥さんと洗い物をして、ほかのおとなたちがモノポリーに興じているあいだ、わたしの隣でお絵描きをしていた教え子は、はっ、と思い出したように顔を上げて、わたしに問いかけた。
「ううん。違うよ」
「えーっ!? じゃあ、ただのお友だち?」
画用紙いっぱいに描かれた、おそらく彼女のお母さんとお父さん、そして自分自身と、ペットの犬とインコ。
「……まるで、お友だちをダーリン以下の存在のように言うのね」
わたしの言う嫌味に彼女は気がつかず、ただその意味を自分なりに咀嚼しようとしていた。けれど、すぐに諦めて、ふたたび握りしめていた真新しい色鉛筆を用紙に這わせている。
わたしには配偶者こそいないけれど、男には困ったことはないほうだ。なにせ、わたしはNRCでの四年間、とにかく男たちの協力を得て卒業まで漕ぎ着けている。男の扱いには慣れていた。
ひとりで生きられそうだよな。
いっぽうで、付き合う一歩手前の男や、付き合いが終わりに差しかかった男には、そう吐かれることが多かった。
齢16にして異世界へトリップし、それから10年以上なんとかひとりで暮らしてはいるので、間違いではない。推定ではなく、もはや事実だ。とはいえ、言うまでもなくもちろんわたしだけの力のわけもないので、厳密に言えば不正解だ。
そもそも、ひとりで生きられそう、とは果たしてそういうことなのだろうか。
女にしては気が強いとか、女のくせにかわいげがないとか、男みたいとか。ネガティブでかなり攻撃的な意味合いだろう。甘え方を知らぬ自立しすぎた女という意味の〝ひとりで生きられそう〟。
気弱なかわいらしい女の子としてこの世界を生き抜けることができていたなら、どれほどよかっただろうか。皮肉のひとつでも吐いてやりたいけれど、ひとりで生きられそうなわたしという存在に、なにか悪いことがあるとも思えなかった。
だからこそ、エースをはじめとする元NRC生とは、そういうことにはならないのだろうけれど。
わたしがこうして二本の脚で地面を捉え、自らの両手で金を稼げるようになるために、関係を築いた同志。相棒。仲間。ありきたりな言葉で表現すれば、そんな感じだ。
「……エースは、いっしょにいて飽きないほど楽しくて、でもへんてこりんすぎなくて安心できるし、絶対に先生を否定しないし、いつも味方でいてくれる、最高な人だよ」
わっ、と盛り上がった団欒の色とりどりの声に、わたしのつぶやきは呑まれる。
グラスに残っていた白ワインを飲み干す。リビングのモミの木のライトが、ちかちかと点滅をくり返していた。
「言っといてくれたら土産のひとつでも持ってったのにさぁ」
「わたしが渡したからよし。それに、サプライズは言ったらサプライズにならないからね」
22時の鐘を聞いてからしばらくして、わたしとエースはマスターの自宅を離れた。
「ま、たしかに、めっちゃうれしかったわ。サンキュー」
またいつだって来ていいのだからね、と夫妻はわたしたちの手を取った。社交辞令でないことはわかっているけれど、さすがに今日みたいに前日連絡だけはもう二度としないようにします、と笑って別れた。
「キャブ捕まえる?」
「うーん。いや、歩こうぜ」
この寒い中? と眉を顰める前に、さっとエースはわたしのコートに簡易防寒魔法をかける。これで徒歩15分の道のりは安泰だ。こういうときは、魔法が使えるってうらやましいなあ、と思う。
「なー、彼氏は? 別れた?」
「……うん。てか、今聞くの? それ」
「ま、一応?」
自宅に泊めることを許可した時点で察しとけ。わかってたからそんなリクエストしてきたんだろうから、黙っとけ。とは言わずに、
「そういうそっちは」
「そりゃもちろん、別れた。今聞くわけ? それ」
「まあ、形式的に」
エースはおそらく、幼少期から局所的にモテていたタイプだ。
顔面とか足の速さとかだけじゃなくて、その性格をもってして、好かれていたはず。だから、変にひねくれていないので、卒業してから、ある程度お金に余裕が出てからも、女遊びに熱中することはなかったようだった。
それでも、エースに恋人のいない期間というのはあまりない。遊ばないだけで、いざ付き合えばそれはちゃんと本気なのだ。たいてい、放っておかれてさみしいとかごねられ、浮気してるんじゃないかとか疑いをかけられて、終わりを迎えている。本人談。
「お前が、俺のことほんとうに好きなのかわからない、ってさ」
ひまつぶしで誰かと付き合うほど、わたしは暇ではない。ひとりでじゅうぶん楽しくやっているのだから。
「前にもんなこと言われて振られてなかった?」
「言われたけど、違う。振られてない。わたしが振った」
「そこ?」
呆れたようにエースは肩をすくめる。
元の世界にいたころ、同情の余地がある、もしくは疑う余地のない血統書こそが、その人のストロングポイントになると、わたしは信じて疑っていなかった。
要するに、五体満足でおおむね健康で大手企業に勤めるが管理職ではない両親がいて、学業成績がそこそこなわたしに魅力的な点はない、という考え方だ。
だからこそ恋人に、馬鹿正直に身の上話をしたことがある。わたしが産まれたのはこの世界ではなく、16でここへやって来て、魔力もない女なのにNRCに通っていた、と。
興味をひけると思ったからだ。最高にクレイジーで、これ以上ない特別性だ。
幸い、わたしは男を見る目があったので、そんな夢のような話を馬鹿にされることはなかったし、信じてくれた。けれど、どうにもこのエピソードは重すぎたらしい。それからは、そのあたりのことは濁すようになった。
そういう〝隠していること〟が、わたしの心が貝のように頑なに見せ、いまいちオープンな付き合いをされていないように思われるのだろう。そしてそれは、ひとりで生きられそうな女であるという結論に流れ着く。お決まりの展開だった。
「お前さ、オレのこと最高だって思ってたんだ?」
「……聞いてたの? ……悪趣味」
今までそんなこと、面と向かって言ったこともなかったので気恥ずかしさはあったけれど、とくに間違ったことでもないので、否定はしない。
「オレもお前のこと最高だって、昔からずっと思ってるけど!」
「なんでそこ張り合う? まあ、でもそうだよね。知ってた」
「なんかうざ!」
右肩をどつかれて、知らない家の壁に左肩がかすった。痛くもかゆくもなかったけれど、抗議のために足を止めれば、へいへい、悪かったよ、とエースがわたしの手首をつかんで引き歩く。
「……お前は、元いた国に帰るべきだと思ってたからさ」
声をひそめるようにして、エースは言った。
「でも、ぜんぜん帰んねーんだもん!」
「……帰れないから、しかたない」
言われるたび、叫びたかった。ひとりでなんて生きていけない。だって、こんなにさみしい。
でも、この隙間風が抜けるような空白は他人で埋められるものではない。ここで生きていく限り、自分で一生折り合いをつけなくてはならないものなのだ。
そして困ったことに、あちらへ戻れば丸く収まるのかといえば、もうそうではなくなった。10年以上ここにいるのだ。失いたくないものは両手に抱えていられないほど増えた。
「まー、それもあるんだけど。正直あのころは、そういう目では見てなかったんだよな。というか、その発想がまるっきりなかったっつーか……」
赤毛をかきむしりながら、エースは言葉を選んでいた。
異性に異性として見られないことは心外ではあるけれども、逆に言えばわたしはあそこで色恋以外のすべてを得たと言ってもいい。
エースを筆頭に、彼らがわたしに対してもほかの男たちと同様に分け隔てなく接することを崩さなかったからこそ(かなり甘やかされていた自覚はもちろんある)、今がある。
「お前が誰かと付き合ったって聞くとなんかまあ、うまくいけばいいなって思ったし。それこそ、ここで家族ができりゃ、もっと安心できんじゃねーかな、って。でも、別れたって聞くと、毎度腹が立つわけよ」
「なんでエースが腹立てるのよ」
「いやいや、なんでだよ!? って。アイツと付き合えてんだぞ!? なんでそのありがたい立場をみすみす手放す!? って」
「それは……」
握られたまま離されていなかった手首が、ぐつぐつと沸騰するように熱を覚えはじめる。歩くのをやめたエースがわたしを見下ろしている視線を感じて、意地でも顔が上げられなくなった。
「ってなわけで、そろそろオレで妥協してみてもいいんじゃね?」
「……妥協っていうか、それは最難関だと思ってたんだけど」
エースとは数え切れないほど越えてきたものがあるけれど、その分、あえて越えなかったこともあった。少なくとも、わたしは。
「今、めっちゃ抱きしめたいの、我慢してんだけど。……いい?」
いいよ、と言えばすべては思うとおりに進んでいくのだろうか。しかしわたしには、自分の望むこの先が自分のことなのにはっきりとしなかった。ただひとつわかっているのは、
「……好きになっちゃいそうだから、困るかな」
「え、まだ好きじゃねーの? オレは、とっくに好きみたいなんだけど」
煮え切らないあいまいなリアクションを返し続けるわたしに痺れを切らしたエースは、許可取りを諦めてわたしの背中に両腕をまわしていた。
「責任とる」
頭上に降って来た言葉に、わたしはエースの胸元に額を押しつける。今、エースに、そしてわたしに、永遠を誓った相手がいない幸運を、感謝するべきだろう。
二度と離してはくれないかのように巻きつく腕に負けないように、わたしはそれを彼にも返すことにした。