フィルダースチョイス
アッという間の出来事だった。学校から帰って制服を着替える前に鳴ったインターホンのモニターにご近所さんがうつっていて、回覧板だと言うので玄関をあけたら、サッと、我が家のネコことキティーは脱走した。回覧板を玄関に投げ捨てて即座につっかけたサンダルで追いかけたけれど、ついぞキティーは見つからなかった。翌朝教室でうなだれた顔で一部始終を話していたわたしに、となりの席の菊地原くんが、
「家主の油断がネコを危険に晒すんだ、最低だね」
……心配してくれた。うん。これは心配。きっとそう。その後だれかによって作成されたクラスのキティー探しメッセージグループにも参加してくれたし、あれは心配だったのだ。それでもまあ、菊地原くんのお言葉は正しく、わたしの後悔を増幅させた。
それから数日、グループの参加者のひとりのヤンチャな男の子から、キティーらしきネコを見かけたとメッセージと、その写真が入った。書かれていた場所は警戒区域ギリギリのところだった。まったく、なんでそんなところを歩いているのか考えたくもなかったけれど、わたしに向かわない理由はなかった。警戒区域とはいっても、そうそうトリオン兵に出くわすものではないのだ。早足で、でもしっかりキティーが隠れていそうなところをチェックしながら、手入れの行き届いていない公園に入っていったとき、不快感をあおるサイレンが鳴り響いた。気がつけばわたしの真上にまっくろな円がひらく。なんてことだ。わたしは漫画の主人公にでもなってしまったか。どさり、と落ちて来たそれに、わたしは身動きひとつとれなかった。
「かざまさんは、ネコ!」
──かざまさんは、ネコ。かざまさんは、ネコなのだろうか。かざまさんってだれ。ネコがかざまさん?
聞こえて来た怒鳴り声に、一時停止していた思考が動き出し、恐怖に肩まで鳥肌がたつようだった。一歩後ずさりしたタイミングで、わたしの目の前に落ちてきたトリオン兵に斬りかかったのは、明るい髪の毛をちょこんと結んだボーダーの人──菊地原くんだった。なんてことだ。やはりわたしは漫画のヒロインにでもなってしまったようだった。これまたクラスメイトの歌川くんがわたしの肩を支えてくれたときには、もうわたしはある程度平常心に戻っていた。自分の身の安全がほとんど保証されたことがわかったからだった。ただし、今度はこの戦闘のあとの自分の身を案じた。菊地原くんに、くどくど文句を言われる未来が容易に想像できたからだった。
「信じられない。キミって、バカなんだ?」
ほらみろ。
はい、バカです。と頭を下げる。歌川くんは少し離れたところで、ひとりでなにかを言っていた。おそらく、無線かなにかで報告をしているのだろう。ひとりごとではないと思う。歌川くんに限って。
「どうせネコ、探しに来たんでしょ? ほんと、軽率」
「はい。キティーが危ないと思って、来てしまいました」
クラスメイトがこのあたりでキティーを見かけたと言っていたことを話せば、菊地原くんはわたしをにらみつけた。言ってくれたらぼくが代わりに探して捕まえてやった、とでも言うのだろうか。たしかに菊地原くんは耳がいいし、ネコ探しは得意分野かもしれない。それでも、お仕事を放棄してネコ探しなんてゆるされないでしょ。
「そのキティーさんは、こいつか」
は、とまたちがう声が背後から聞こえて、わたしは振り返った。ネコを、我が家のキティーを、抱えている男の子がそこにいた。菊地原くんたちと同じ隊服を着ているから、仲間の子なのだろう。駆け寄って、わたしはその子に頭を下げた。ありがとう、ありがとうと、なんどか言ってから、菊地原くんがいたほうをもういちど向いたけれど、もうそこに菊地原くんも、歌川くんもいなかった。
「すまないが、本部までついてきてもらうぞ」
「あ、はい」
「名乗るのが遅れた。風間隊の風間蒼也だ」
風間さん──ネコ。あ。
風間さんはネコをつかまえてください、と、怒鳴っていたのか。──菊地原くんが。というか、風間さん、ということは、わたしたちより年上なのではないか。
歩き始めた風間さんの背中を早歩きで追いかける。なんだかキティーは風間さんに懐いている様子なので、そのまま抱えておいてもらうことにした。風間さんもまんざらでもなさそうである。公園を出て、すぐの道路脇に大きなボストンバックが置いてあって、風間さんはその持ち手を片手でひょいと引っ張った。造作もなく浮いたそれの中身は空のようだ。
……もしかして。
「菊地原にしては、めずらしく動揺していたな」
そうか、菊地原くんは、あのメッセージを読んでいたんだ。ということは今はお仕事中ではなかった。それで、非番だったけど本部にいたチームメイトをネコ探しに借り出してくれたんだ。ボストンバックにでも入れて、わたしに届けてくれようとしていたんだ。きっとそういうことなのだろう。
「……クラスメイトだからじゃないですかね」
あははと笑ってはみたものの、もはや、にやけていたかもしれない。また逃げられては困るからな、と風間さんは名残惜しそうにくたびれたバックのチャックを開けようとするので、わたしがそのバックを受け取った。
「菊地原くんが入部するなんて、意外」
「各隊から1人出せとか言われたから、しかたないよね」
本部のラウンジに続く廊下で、パックのジュースをちゅうちゅうと吸っている菊地原くんに会った。掲示板に貼り出されていた野球部のメンバー表を見ていたわたしの感想に、菊地原くんは呆れた声を返した。ボーダーに野球部ができます、と聞いたときは、ちょっとうれしかった。わたしは野球をプレーはしないけれど、野球観戦はすきだったからだ。でも、まさか菊地原くんのような気だるい男の子がその部員名簿に名を連ねるとは、想像していなかった。
「キミもマネージャーなんてよくやるよね。いくら野球好きだからって、給料も出ないのに」
「風間さんにお願いされちゃったから」
風間さんと本部へと向かう道すがら、「ボーダーへ入隊するか」と、風間さんに聞かれた。なんとなく、ふくみのある言い方だった。しないなら、このあとなにかがあるのではないかと思ったのだ。だから、「したいです」と、うなずいた。そのときは、そのなにかはわからなかったけれど、菊地原くんの不器用なやさしさを胸いっぱいに抱えていたわたしの判断は、結果として正しかったといえる。
おまえは最初こそおびえていたが、すぐに落ち着いていただろう。ふつうは、ああなっても一般人は震えているものだ。だから、向いていないことはないと思ったからな。と、風間さんはわたしたちの関係性だけを思ってこの選択肢を提示したわけではないということも、ご丁寧に教えてくれた。そうしてわたしは、オペレーターになった。
でもそれを、菊地原くんは知らない。菊地原くんは、わたしにはあの日の記憶がすっかりないと思っているのだ。べつに、そういう措置はされていないですよと舌を出してもよかったけれど、わたしも忘れたことにしてる。ほんとうは、言いたいけれど。ありがとうと、お礼をしたいけれど。
それから、菊地原くんにキティーの首輪に印字していた住所を頼りにボーダーの人が連れて帰ってきてくれた話と、じつはボーダーに入隊しようと思うのだという話を教室でしたら、菊地原くんはじとりとわたしをみた。そうして、「やめといたら」と、言った。それはそうだろう、助けてやったクラスメイトがわざわざ戦火に飛び込もうとしてくるなんてたまったものではないだろう。記憶を消さなきゃよかったとすら思ったのではないか? まぁ、あるからこそ入隊したのだけれど。
「ほんと、なんでそんなに風間さんと仲いいわけ? おかしくない?」
あれ以来、ほんとうにたまに風間さんと帰りが一緒になると家まで送ってくれて、ついでにうちのキティーを見て帰るのだ。いや、わたしを送るのがついでか。キティーが本命だ。親は風間さんのことをわたしのクラスメイトだとばかり思っていて、ずいぶんしっかりした高校生だと感心していた。でも、これも不満顔の菊地原くんには内緒にしておく。
「まだ隊の所属決まってないんでしょ」
「うん。まあね」
「せいぜい本職を疎かにしないようにね」
わたしは菊地原くんのやさしさを忘れぬために入隊したけれど、菊地原くんといっしょには闘えない。それなら菊地原くんのフォローをできるような場所で働きたいから、中央オペレーターとして働けたら満足だ。それが私情を挟みすぎだと言われようとも、みんな私情のかたまりじゃない。みんながみんな三門市のため、ボーダーのために働いてるわけじゃないでしょ。もちろん、隊をつくりたい人に声をかけてもらえたら、いっしょに闘いたい。何様? と言われそうだけど、菊地原くんたちをさらにレベルアップさせる好敵手になるのも、もちろんいいだろう。
再度メンバー表に目を向けて、気がつく。そうよ、風間隊は風間さんをはじめ、歌川くんも、みんな入部してるじゃない。それに、わたしが野球好きだなんて菊地原くんに話したことあっただろうか。
「なに笑ってんの」
一瞬よぎった考えを否定する材料もないので、緩む口を手で隠した。
「ううん。菊地原くんと野球できるの、うれしいなって」
「キミは打たないし守らないでしょ」
「もう。そういうことじゃないから」
よく、とっさの判断でミスをしているけれど、気がついている? それとも、わざと?──聞いてみたら、菊地原くんはまた間違えてくれるだろうか。