It Gets Dark

 その腕に包まれると、そのときわたしがどんな感情を抱いていようとも、そこがどんな場所であろうとも、今わたしは世界でいちばん幸福なのだと認識する。
 これは思考のバグのようなもので、けれど思春期のころからシナプスがそう繋げられてきたため抗えないのだ。
 二宮匡貴がスキンシップをともなって人を励ますことはめったにない。覚えているのは二度。ネイバーによる第一次侵攻でわたしが家を失い、三門市の総合体育館で途方に暮れていたときが最初だ。彼は中学の制服を着ていて、そのわりにはもうずいぶん背が高く、中学校という組織に与するには精神年齢も圧倒的に大人びていたため、いつも窮屈そうな印象だった。わたしは寒さと不安でぼんやりとしていたからか、脱力するように目の前の胸に顔を寄せ、自分の視界を遮断した。彼はすんなりと背中に腕を回し、数度なでた。日ごろ無愛想に見える同級生が見せた素直な労わりに、わたしは場違いな幸福を感じたのだった。

「僕のせいだ」
 それから四年と半年が経ち──わたしの恋人はそう言い残して、街を去った。
 二度目の大規模侵攻により、運悪く右脚を失ったわたしは三門市の病院に入院していた。崩れた鉄骨が膝から下を複雑に潰したため、切断を余儀なくされたのだ。最近は義足の性能がよく、リハビリ施設も充実しているためそこまで悲観はしていない。けれど恋人はそう思えなかったようだ。
「大規模侵攻はボーダーのせいじゃない。俺のせいでもなければ、その男のせいでもない」
 お見舞いにきた二宮くんははっきりと言い切って、持たされたのだろう花籠を棚に置く。
「だがお前が脚を失ったことの責任の一端は、ボーダーにある」
「そんなこと……」
「ある」
 彼はやはり断言して、こちらを見下ろした。自分の体が不自由だからか、ベッドサイドに立つ二宮くんはいつもよりさらに大きく見えた。
「責任ってなんだろう」
「何かに所属するということは、少なからず責任を負うということだ。防衛機関でも、ベンチャー企業でも、町内会でも、手芸クラブでもだ」
 例えは独特だが、もっともだと納得する。それは選んだ自分への責任であり、選ばれた役割としての責任でもある。
「それが嫌なら辞めればいい」
「辞めて、彼はこの街を去った」
「責任を感じるのか?」
「責任……」
 恋人はボーダーに所属していたけれど、このたびの大規模侵攻をきっかけに辞め、県外へ越した。そのような選択をした人は少なくない。みんながみんな、揺るがぬ意志と向上心を兼ね備えているわけではないのだ。
「パートナー関係だって、言ってみれば所属だろう。互いに責任を伴う」
「……所属や責任とは少し違うかもしれないけれど、寂しさや後悔はあるよ」
 極端な言い様に苦笑しながら、彼とはおよそ正反対の気質をもっていた恋人を思い返す。
「優しい人だった」
「優しい人間はその優しさに周囲を巻き込む。一概に肯定できるものでもない」
 二宮くんは苛立ちを隠しもせずそう言い捨てた。厳しい意見に黙っていると、わたしが傷ついたと思ったのか、彼はわたしの目をじっと見た。普通はそらすだろう場面で、この人は逆にこちらを見据える。それを高圧的と思う人も多いようだけれど、思うにただ真面目で、負けず嫌いで、お茶を濁すということを知らないのだ。他人を否定するけれど、自分に対する批判的思考もきちんと持ちあわせている。案の定、自分なりに思うところがあったのか二宮くんは言葉を付け足した。
「でも、そういう共感性も大事なんだろうな」
「二宮くんだって大概だよ。いつも誰かのことで怖い顔してる」
「誰かのことじゃなくて、俺のことだ」
「そうやって、なんでも自分ごとにする面倒見のよさ、好きだよ」
「なんでもじゃない。したいものだけだ」
 頑固な人だ。二宮くんは見本のように揺るがぬ意志を主張して、けれど声のわりには優しげに、わたしの肩に手を置いた。ずるずると上半身をすべらせて、寄りかかる。かれこれ付き合いは長いけれど、男女の仲になったことはない。けれど彼はわたしが大事なのだと思う。
 見た目の印象より高い二宮くんの温度を感じながら、二度目に触れた日のことを思い出した。
 高校三年生の冬、彼氏にこっぴどくふられ、一人で夜道を歩いていたときも彼はどこからかわたしの元へやってきた。「別れた」という報告に「なんであんなのと付き合ってたんだ?」と率直すぎる疑問を呈し、やはり二宮くんは怖い顔でわたしに触れた。わたしはそれを友愛と受けとって、ありがたく寄りかかった。それ以上の気持ちを抱くべきじゃないと律していた部分もある。彼はボーダーに入隊してずいぶんと忙しそうにしていた。
 そのときどきで、わたしはいろいろなものを失い、そのたび彼の熱を感じている。だからか、喪失と幸福がセットになって脳にある種のバグを発生させていた。どん底に行けば彼がいる。そういった、人生の最終ボーダーラインのようなものだ。
「そんな都合のいい男でいなくていいのに」
「都合がいいのか? 意外だな」
 二宮くんは珍しく、ため息のような声でつぶやいた。少しの自嘲も入っていたと思う。
「都合がいいのは俺の方だと思ってた」
「そうなの? それってつまり……」
「責任を負えないからな」
 たしかに、彼はいつどうなるかもわからない人間だ。わたしよりずっと安定して見えるが、わたしよりよほど死に近い場所にいる。
「じゃあこうやって、ずっと胸だけ貸しつづけるの」
「他に貸してほしいものがあるなら考える」
「そう言われると……」
 思いつかないけれど。積極的に接触しながら、つねに受身の体勢をとる彼はたしかにずるいのかもしれない。けれど誠実だとも思う。そして、意外に感情的だとも。
「考えとくよ」
「考えてくれ。男にふられたときはもう知らん。お前は見る目がなさすぎる」
「その発言、いつか自分の首を絞めるからね」
「……そんなわけあるか」
 彼は眉をひそめ不服そうな顔をした。わたしが笑うと、今度は頭に手のひらがまわる。二宮くんの胸の下あたりに額を寄せながら、中学、高校と思い出し、彼がもう窮屈そうでないことに気づく。きっと今いる場所があっているのだろう。わたしにとっては複雑だが、彼にとってはいいことだ。
「ボーダーのことはわからないけど、向いてるんだろうね」
「わからなくていい。俺も……」
「うん?」
「お前のことはよくわからない」
「じゃあ、どうして昔からかまうの」
「迷惑なのか」
「まったく、そんなことは、ぜんぜん」
 質問に質問で返す男はやはりずるい。
 点滴のパックが空になろうとしている。だんだんと眠くなり、目を閉じる。彼の手が素直な労わりをもって背に触れたため、三度目にして決定的に、わたしのシナプスは強固な結束をみせた。
 その腕に包まれると、そのときわたしがどんな感情を抱いていようとも、そこがどんな場所であろうとも、今わたしは世界でいちばん幸福なのだと認識する。