進級時におこなわれる大学構内での健康診断が終わって、購買で買った惣菜パンをばったり出くわした竹谷とともにラウンジでかじっていた。ランチにしては少し遅い時間だったけれど、食事をぬかざるを得なかった学生たちがちらほらと同じような行動をしている。学食でがっつり食べたかったのでは? と竹谷に問えば、朝ふつうに食べたんだよな、と医者泣かせなことを言う。検診前の注意事項を表示させたスマートフォンの画面を眼前につきつけていたところ、背後から責める調子で名前を呼ばれて振り返った。
「探したんですよ! 既読にならないし!」
「……ああ、見てなかった」
「今スマホ触ってただろ!」
ごもっともだった。手元のスマートフォンのメッセージアプリをひらけば、たしかに未読のメッセージがあることを示すマークがついている。いかにも大学入学したてです、といった茶髪がまぶしく、不満そうに腕組みしてわたしを見下げている。
「高校の後輩?」
「そう。ふたつ下の、次屋くん」
わたしと次屋の顔を交互にみて、竹谷は自分の名を名乗り、次屋もあらためて頭を下げた。次屋は竹谷と学科も同じである、と話の弾みそうもないふたりに追加情報を与えると、よろしくなぁ、と竹谷がへらりと笑った。
「で、次屋はなんの用?」
「なんの用て! 入学したし大学構内で挨拶くらいしときたいと思って!」
ぷりぷりと怒る、というのはこういうことを言うんだよな。次屋の見慣れた一挙手一投足をながめていると、どうしても頬がだらしなくゆるんでしまう。それでまた、次屋がへそをまげるまでがいつもの流れだった。
また夜に! と、大股で出入り口へ向かう次屋が入学早々大学構内の地図を脳内に描けている可能性は限りなく低かったが、わたしも気の抜けた返事だけを背中に返した。
「……意外だ」
「なにが?」
「、面倒見悪そうなのにな」
プレーン味の飲むヨーグルトをストローで吸いながら竹谷は納得のいかない様子でわたしの顔をじっとみる。そんなにわたしに懐いている後輩がいることがおかしいか。まあ、どちらかといえばわたしが面倒をみられている側なのかもしれない。とは思ったが、口には出さなかった。
「ってか、今日飲み会つってなかったか?」
「そうだけど?」
「どうすんだよ?」
また夜に、と言い残し去っていった次屋の発言を受けてわいてきた疑問だということはわかった。たしかに、わたしはパンを頬張りながら今日の夜基礎演習のクラスの飲み会に行くことを竹谷に話していた。そういうちょっとしたささいなところに目ざとく気が付いてしまうのが、竹谷のいいところにはちがいない。
「べつに、問題ないよ」
「……付き合ってんの?」
「まさか」
「……おほー。そゆこと」
ずるずるとヨーグルトの残量が少なくなった音をたてた紙パックをテーブルにこん、と置いた竹谷は、寝癖のめだつ頭をかいた。腑に落ちたようだったけれど、それを俺は積極的に知りたくはなかったな、けど俺が突いたからだよな、といった困惑と後悔の色がみてとれた。どうにも竹谷はわかりやすい人種なのだ。
「同情不要、干渉不要だよ」
「そりゃそうだ、が加害者だろうからな」
「人聞き悪っ! 傷つけてないし!」
「兵助は知ってんの?」
背もたれにうんと伸びをしてもたれかかった竹谷は、わたしと次屋と同じ高校へ通っていた久々知の名を出した。自然なことだとは思ったけれど、わざわざ都合のよい関係を築いている次屋くんです、なんて紹介をわたしが久々知にするはずもなかった。するはずはないけれど、していないからといって、久々知が知らないという理由にはならない。それは理解していたけれど、わたしはしずかに首を横にふるにとどめた。
「……まあ、三郎には黙っといてやるよ」
なんでそこで三郎が出てくるの、と、これまたわたしは口に出そうとしたけれど、だまってストローを吸った。黙っていたほうがいい、という予防線にはどうしたって大賛成だった。
高校三年間、どうしてだかわたしはサッカー部のマネージャーをしていた。気の迷いだと思う。スポーツを自分でプレーしたことはなかったし、サッカーなんてワールドカップとかオリンピックのときしか観ない。けど、わたしはマネージャーだった。わりとよく働いた。そうしてサッカー部に帯同していたわたしは三年生のとき、新入部員のなかにいた次屋と出会う。曲がりなりにもそこそこ知名度のある私立高校であったので、プロを目指すようなレベルの子たちも県外から寄せ集められることがあり、次屋もそのうちのひとりだった。
「付き合ってください!」
「……」
「めっちゃかわいいっす!」
「……」
「さんが!」
「……そう? ありがとう」
だが、次屋は出会って半日、部活動終わりにビブスを回収していたわたしに向かってはっきりとそう言ったのだった。うれしいとかはずかしいなどという気持ちよりも、おそろしい、という恐怖がわたしの感情をうめた。ズドンとストレートにぶつかってくる素直で、だからこそ遠慮のない乱暴なそれがおそろしかった。
「なので、付き合ってください!」
「それは無理」
「なんでですか!」
「出会って半日だよ?」
「時間は関係ないと思います」
「わたしはあると思います」
「じゃあ、どれくらい経てばいいですか?」
それからついに高校生が大学生になるほどの年月が経過したわけだった。
そんな日のことをわざわざ思い返すことなんて年にいちどあればいいほうだけど、竹谷とお酒のせいで引っ張り出してきてしまった。まぶたが落ちそうになりながら、木造平屋の玄関を引けば鍵も入れる必要なく開いた。鍵は閉めろと毎度言っているのに、そうしない。ということをわたしはとっくに受け入れているからこそ、鍵をポケットから出すことなく扉を引いた。その事実にも今日はいちいち気にさわった。
「遅すぎ」
「遅くなるって言った」
廊下の壁によりかかってスマートフォンをいじっていた次屋が顔をあげずに不満をあらわす。パンプスのかかとをそろえるためにかがんだ背中から腕がまわってくる。そのまま立ち上がっておんぶなどできるわけもなく、わたしはじっと動きをとめた。
「お酒くさい、煙草くさい、お風呂入ってきて」
「今日は文句ばかりだね。ご機嫌ななめ?」
「うるさいです。はやく」
「はいはい」
なにもかもわたしが次屋に怒られる筋合いはないのだけど、やっぱり不機嫌な次屋を感じるのはとても愉快な気持ちにはなる。はてさて、竹谷といっしょにいただけでご立腹とは、先が思いやられるね。ふと頭のかたすみに浮かんだ、次屋よりもいくらか明るい髪色の他学部の同級生の顔に、アルコールのにおいが強いため息がもれた。