誘引ノクターン

 早く今日が終わればいい。
 反対ホームに助走をつけて飛び移って蜻蛉返りしたい金曜日。朝一でクレーム対応が待っている。怖いという後ろ向きなネガティブさではなく、それこそ飛びかかって殴りたい前向きな衝動にかられているわたしに任せるのは悪手だといえる。
 気合いを入れて履いた八センチヒールのパンプスを打ち鳴らしながら、歩行はご遠慮くださいとアナウンスする女の声を無視してエスカレーターを問答無用で歩く。ICカードをかざそうとコートのポケットに手を突っ込んだところで、視界の端に暗い黄色の髪の毛が滑り込んだ。わたしがくぐった改札の隣から吐き出された同僚も、わたしの存在をみとめる。わたしはカードケースを、諏訪くんはスマートフォンを小さく掲げて、立ち止まることなく朝の挨拶を交わした。
「電車なんてめずらしいじゃん」
「徹マン明け。まあ、数時間は寝ましたけど」
「換装するとはいえ、防衛任務前に徹夜で麻雀をするなよ、大学生」
「帰るつもりだったんっすけどねー。報告書も今日出さねーとだし」
「報告書ってデータ送付じゃないの? アナログだね」
「いや、普通はそーなんすけど、直談判してー話もあって、忍田さん捕まえようかと」
「そりゃ、意欲的なことで」
 大通りの信号が切り替わって通勤通学を急ぐ人間たちが機械的に動き出す。真っ黒なコートはまるでユニフォームだ。
 わたしたちも彼らから遅れを取らぬようについていくけれど、横断歩道を渡り切ってビジネス街や学生街とは外れる真逆の通りに身体を向ければ、閑散としていて人影がほとんど見えなくなる。
「最近どっすか」
「トータルとしてはぼちぼち。今日は今すぐ身を翻したい気分」
「ああ、一般人の顔載せちまったやつか」
「そー、それ。別にさあ、横顔が見切れるくらいよ? 自意識過剰すぎる」
「まあ、相手が悪かったっすね」
 定期更新しているボーダーのウェブサイトに載せている活動記録に添付していた嵐山隊の写真に、反ボーダーの中年女性が写り込んでいた。とは言っても先に述べたとおり、残像くらいなもんである。ほんとうに彼女なのかも危うい。肖像権の侵害だとかなんとか難癖つけられている。
「一般的に、女性相手には男性が対応したほうがいいと思うんですけど」
「期待されてんじゃないっすか。そういうの得意そうだし」
「なにそれ。うれしくないね」
 期待の新人、と諏訪くんが揶揄う声に顰めっ面を返す。
 わたしは新参者の一般職員である。またの名を裏口入学組者とも言う。
 新卒で大手広告代理店に入ったのだけれど、二年と少し勤めたところであまりの激務と俗にいうパワハラでキャパオーバーし、体調を崩した。自分がそういうタイプだと思っていなかった分、かなり落ち込んだ。それでも、フレックス制度に甘えてどうにかこうにか帳尻を合わせながら仕事を続けていくつもりだった。同世代と比較した際の高給と、ある程度の社会的地位を約束された職を手放したくなかったのだ。
 そんなある日、高校の同級生である東くんから連絡があり、なあにい? 東くんってわたしに気があったわけえ? などと浮ついたことも考えなくもなかったサシ飲み。しかし気がついたときには、メディア対策室室長が座敷に鎮座していて、あとついでに諏訪くんがいたのである。どこから聞きつけていたのか、仕組まれていたのだ。囲われた。
 今ならわかるが、諏訪くんは東くんとは少々違う角度とはいえ人材を見る目のある人間だ。四つも年下の大学生に見定められた件に関しては、やはり誠に遺憾ではある。
 かくしてボーダーのメディア対策室へと転職し、前職よりよっぽど忙しいと感じるときもあれど上司・同僚の人間性は問題なく、まれに休日出勤も発生するとはいえ特別手当と振替休暇がついてくる。有給も比較的取りやすい。ホワイトとは言いたくないけれど、限りなく白に近いグレーである。似たようなタイトルの小説があった気がするけれど、あいにくわたしは読書を嗜まない。
「あ、わたしコーヒー買って行くから」
「おー、俺も買お」
 地下通路口に向かうまでに立ち寄れる最後のコンビニでアイスコーヒーを買うのはルーチンだ。なのでいつもそうしているように普通に自分で支払うつもりだったけれど、なんでアイスなんだよ、と怪訝そうに眉をひそめた諏訪くんが、自分のホットコーヒーとまとめてモバイル決済してしまった。
 からからとプラスチックのカップをゆらしながら自動ドアをくぐれば、先に見覚えのある制服姿の女の子がふたりが並んで歩いていた。
「お、結束に草壁じゃねーか」
 諏訪くんに名前を呼ばれた結束ちゃんは、おはようございます、と頭をきれいに下げて、草壁ちゃんは会釈して腕をくんだ。
 結束ちゃんとはスカウト旅の前にボーダー資料の調整で何度かミーティングをもったことがある。草壁ちゃんとも一度席をともにした。結束ちゃんとは違って愛想があるとはとても言えない子だけれど、諏訪くんが弟子としてかつて目をかけていた子だ。いまや若くして隊長をやっているのだから、そこを差し引いてもいい子であるには違いない。
 極力シフトは配慮されているけれど、こうして防衛任務と学校の時間が被るのはかわいそうだ。教室でしか得られない経験がたくさんあるのに。それを投げ打ってでも三門市に貢献したいという意思は尊敬に値する。ただ、その限りある時間の貴重性に気がつくのは青春時代を追い越してからだったりするので皮肉なものだ。それと引き換えに仲間をつくれることが等価交換になるとよいとひっそり願っている。
 斬新なメンツだなあ、とストローをくわえながら振り返れば結束ちゃんがわたしと諏訪くんの顔を視線だけで比較して、すぐに草壁ちゃんに移した。わずかに懐疑的な眼差しだった。
 わたしのストレスからくる倦怠感は諏訪くんの寝不足からくる疲労感と酷似している。仮にわたしの睡眠時間が足りていないとしても、その出所は同じではないというのに。
 職場恋愛している賢い大人は、夜を過ごしたあとにふたりで呑気に出勤なんてしない。ほんとうに賢いなら職場で恋愛はしないかもしれないというのは、この際置いておこう。いずれにしたってわたしと諏訪くんはそういう間柄ではないのだ。
 そういうきみたちだって、示し合わせていっしょに出勤しているわけではないでしょうに。
 問われてもないのにこちらから否定するのはまるで肯定しているようになってしまう。それに、いくら結束ちゃんが恋愛沙汰に敏感なほうの女子高生だからといっても、根拠のない噂を流すタイプではない。
 わたしはまったく興味がないけれど、彼女たちに学校の定期考査の対策が捗っているかどうかを尋ねることにした。

 喫煙ブースからスマートフォン片手にフリック入力しながら出てくる諏訪くんに出会したのはとうに定時は過ぎ、ヒールを脱ぎ捨て、ぶん投げたくなるくらいの時間が経った帰り際だった。
「今日はよく会うね、諏訪くん」
 ぱっ、という効果音が聞こえそうな速度で顔を上げた諏訪くんは、おお、と対照的に気の抜けたリアクションをしてから端末をポケットに突っ込んだ。
「無事やり遂げました?」
「なにをもってして無事というかは微妙だけど、ケリはついた」
「はは、そらよかった」
 諏訪くんの背中には真っ黒なバックパックがあったので、彼もこれから帰路につくのであろう。働き者だ。
 彼こそ忍田本部長を捕まえられたのだろうか、と問いかけようとしたけれど、深い話を聞いたところで共感も意見もしてあげられないので今朝の話の内容は忘れたこととする。
「よかったらですけど、これからさくっと飲み行かないっすか」
 奢るんで、と諏訪くんは胸元でグーサインをつくった。
「まー、景気よく行きたいところではあるけども。わたしは基本的にレモンサワーと梅酒しか飲めないよ。それに、時間的にも、ねえ」
 ちらと確認した左腕の腕時計は、もう時刻が二十一時をまわろうとしていることを示している。なにせ、日を跨ぐ前に三門市の終電車は走り出すのだ。タクシーは好まない。よって、かなりタイトなスケジュールになる。
「俺、駅前まで行くんで」
「まあ、なら一、二杯いけるかあ」
 はいともいいえとも言わず、可能性だけを提示する。
 諏訪くんはわりとポジティブな思考の持ち主なのだろう、再度取り出した端末をスワイプしてグルメサイトのアプリをながめている。わたしは本部の出入り口へと歩を進める諏訪くんの隣に並ばざるを得ない。
「草壁に言われたんすよね」
「ん?」
「諏訪さんってああいう人タイプですよね、って」
「ああいう人? ……どういう人?」
 脈絡のない中学生と大学生の恋バナの報告に首を傾げれば、諏訪くんはわたしの鼻先に向かって人差し指をさした。
「こういう人」
「えっ? ……そうなの?」
 だとしても人を指差すんじゃありません、と叱りつける前に椎名林檎の曲が脳内で再生される。
 わたしはきれいとか美人とか、あとかわいいタイプでもないけれど、局所的にモテそうな顔をしていると評されたことはある。つまりそれは、すべての人間に当てはめられることである。
 指さしていた手を引っ込めて自分の髪の毛をがしがしと引っかきまわしてから諏訪くんは、
「……わからん」
 わからんってなんやねん。
 思わず縁もゆかりもない関西弁で心の中にてツッコミを入れる。
 わたしは自分の顔をきれいでも美人でもかわいくもないと認識しているのに、なぜ諏訪くんがわたしの顔を評価していると仮定したかというと、わたしは非喫煙者だし、小説も読まないし、ギャンブルもしない。お酒はそこそこ。同じ組織にこそ属しているけれど、業務内容は異なる。諏訪くんとの共通点というのは、要するにあまりないからだった。
 それでも毎度顔を見かけるたび、一瞬の躊躇いもなくどちらからともなく呼び止めるのは、ボーダーに引き入れる片棒を担いだ責任からなのか、引きずり込まれた側も、そこそこうまくやれていると安心させたいからなのか。
「それを確かめようかと思って、誘ってみたんすけど」
「……なにそれ」
 自動ドアが静かな音を立てて開く。冷え込んだ夜の空気が、換装している隊員たちは効きすぎていることに気がつかない暖房で熱った顔と足の甲を心地よくなでた。
「まあでもなんか、いまさら確かめる必要とか、ねーのかも」
 一般論として今夜は断ったほうがいい。それでも行くというのなら、一杯で切り上げ、余裕をもって電車に乗るべきだろう。
 でも、思ってしまった。このまま夜の街に紛れたい。早く今日が終わればいい。