秘密の合図

「ペペロンチーノって十回言って」
「……ペペロンチーノペペロンチーノペペロンチーノペペロンチーノペペロンチーノペペロンチーノペペロンチーノペペロンチーノ……ペペロンチーノペペロンチーノ」
 手元の分厚い文庫本に視線を落としたまま、諏訪くんは見事に同じ単語を十回言い切った。
「ありがとう。助かった」
「……はあ……?」
 わたしのお礼に、諏訪くんが顔を上げた気配がする。
 にらみつけていたノートパソコンの液晶からわたしが使用していないほうの長机に目をうつせば、案の定諏訪くんはこちらをうかがっていた。
「ちょっと、馬鹿馬鹿しいことを欲してた」
 ペペロンチーノは、二時間ほど前に食堂でわたしが平らげた少し早いランチだ。ペペロンチーノを十回唱えたところで舌を噛んでもらえることもないし、次に問いかけるひっかけ問題をわたしは用意していなかった。よって、諏訪くんはただ十回ペペロンチーノと言わされただけである。
「……そーかよ」
 入れ違いにそらされた瞳は、すでに手元の文字を追っている。
 秋の学祭前の大学構内は、いつもに増して騒々しい。あちこちでミーティングが開かれていたり、装飾物の制作作業が行われていたりする。
 学部棟の地下一階、廊下の突き当たりにあるこの自治会室にも多少の音は漏れ聞こえてくるものの、比較的静けさを保てている。今はわたしと諏訪くんしかいないから静かだけれど、普段はそこそこ混沌を極めているので、やっぱり読書には図書館のほうが向いているだろう。
 推理小説の登竜門みたいな東野圭吾の白夜行を諏訪くんが未読であったことに先月驚いたものだけれど、ドラマを観たっきり、小説に手を出していなかったらしい。わたしは衝撃的な結末の余韻を引きずりながら本屋で母に強請って買ってもらい、駆け足に読破した記憶がある。
 成人してから読んだとしても結構過激な描写だらけの後味の悪いあの話、今彼はどんな気持ちで追いかけているんだか。わたしの存在、気にならないんだろうか。近所の野良猫くらいに思っているのかもしれない。
「丼勘定の予算が上がってきてさ。なんでやり直しになるってわかってるのに、こんなことするんだろ」
 大学生活における意見を学生から集め改善策を話し合い、大学や学部と交渉して実現をはかる組織が自治会だ。サークル設立の手続きやイベント企画の運営、予算折衝なんかをおもな業務として行う。それこそ学祭の運営はそのたびに設立される実行委員会が主導するけれど、そのあたりの面倒も見る。大学の生徒会みたいなもんだ。少なくとも三門市立大学のそれは、極左暴力集団ではない。
 わたしは自治会の執行部員だけれど、こうしてたびたび自治会室を訪れては滞在する諏訪くんは部外者だ。ここでいう野良猫は諏訪くんのほうである。
 当時二学年上だった、もう卒業した先輩を諏訪くんが迎えに来たのが、ここで最初に会ったときだったと思う。これから麻雀に行くのだ、と先輩は言っていた。
 ノートパソコンの手前を両腕を伸ばして押し、そのままテーブルに上半身を預ける。泣いたかと錯覚するようなまぶたの重さが気持ち悪い。
「泊まり?」
 頭をもたげると、壁際に置いているシルバーのスーツケースが目に入る。一昨日から置きっぱなしになっている。
「うん。みんな夜行性だから、早くて昼過ぎからしか集まらなくて。そのまま全員の合流を待ってたら、お察しだよね」
 わたし以外の人は大学近郊にひとり暮らしをしているか、実家がある。三門市立大学の学生にはめずらしく、電車を乗り継いで二時間の距離の実家に暮らしているわたしが彼らのライフスタイルに合わせるには、人の家やこの部屋を利用するしかない。多数決の原理はときに理不尽だ。
「自治会ってよ、全員が同じ方向見てなんかやるには、終着点が曖昧っていうか。まあそれこそ学祭、新歓、って区切りがありゃまたちげーんだろうけど、モチベがズレてもしかたねーよな。って考えっと、おめーはよくやって────」
「諏訪くんに、なにがわかるの」
 プールの水が耳に入ったときみたいな閉塞感が襲ってくる。気がついたときには諏訪くんの言葉を遮っていた。
「……や、違うの。……ごめん」
「おー」
 なにが違うんだ。だから嫌なんだ。
 わたしは生真面目で手が抜けなくて、人の溜め込んだことを処理してしまう。ゴミみたいな案件を整えてしかるべき場所にねじ込んでやるのがわたしの仕事だ。損な役回りだと思っている。諏訪くんには、わかるまい。馬鹿にしてるんじゃない。諏訪くんは、そういうタイプじゃないでしょう、というだけ。
 だから、そんなところをほめられてもうれしくない。悔しい。わたしはまっとうなことをしているはずなのに、器用に立ち振る舞えなくて。こうして、そのやさしさを跳ね返してしまうような不器用さが憎い。不器用なんて言葉で八つ当たりが許されるのは、せいぜい大学生までなのではないだろうか。少なくとも、親しい友人未満の同級生にするものじゃない。
「俺んち、来るか」
「……え?」
「どーせ寝袋とか床で寝てんだろ。これから夜まで、防衛任務だからよ。その間ベッド貸してやる」
 栞を挟んでからぱたん、と閉じられた本は、わたしのただひとつの返事を要求していた。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
 怒鳴りかけた手前、わたしは拒否できる立場にもない。
 スーツケースから寝巻きだけ引っこ抜いて、わたしと諏訪くんは揃って自治会室を出た。

 大学とボーダー本部基地の中間地点あたりに位置していた諏訪くんがひとり住まうワンルームは、わたしの知る限りの大学生の男たちのそれより、随分とこざっぱりしているように思う。この部屋に滞在している時間は、せいぜい諏訪くんの睡眠時間分くらいなのだろう。本で溢れかえってるのかと思っていたけれど、円卓に数冊重なっているだけだった。
 諏訪くんは、ここはボーダーが三門市立大学に通う隊員のために借り上げているアパートだと説明した。この部屋の隣やほかのフロアにはほかのボーダー隊員が暮らしているのかと想像すると、少し緊張した。後輩を含め何人か、顔と名前が一致したうえで会話をしたことがある。
 諏訪くんは彼の家の設備をひと通り説明したけれど、小さな空間にあるそれらをすべて案内したところで、ほんの数分の話だった。
「鍵、下のポストに入れといてくれ」
 着ていた服を着替えることも、追加でなにか荷物を持ち出すこともせず、諏訪くんは靴箱の上にこの部屋の鍵を置いてまた玄関から出て行った。
 使ってくれて構わないと言われたシャワーを実際に使うのはなんとなく気が引けたけれど、服は着替えるとはいえこのまま他人のベッドに潜り込むほうがよっぽど罪悪感を覚えた。
 浴室にはクレンジングオイルもないし、高級なトリートメントもなかった。ドライヤーは名も知らぬ安価であろうメーカーのものだったし、スキンケアの類もなかった。
 布団にもぐると、リネンやわたしの髪の毛から知らない匂いが巻きついてくる。数回静かに深呼吸をしたら、まるで睡眠薬のように脳に染み込んでいった。

 は、とクリーム色の壁紙が目に入った。壁だ。ごろり、と寝返りをうったらシーリングライトの電球色の灯がまぶしい。おかしいな、うちは昼光色だし、よく泊まっている自治会メンバーの自宅も白いライトだ。
 そこは見知らぬ天井で、わたしはここが自宅でも自治会メンバーの家でもないことを思い出した。
 ぐっと左腕をマットレスに押し当てて身体を起こそうとすると、冷蔵庫の横に佇む家主を捉えた。
「ひ」
 短く声が出て、ふたたびベッドに身体の側面が沈む。
「驚きてーのはこっちだよ」
 眉根を寄せた諏訪くんが、持っていたビニール袋を円卓の上に置いた。
「お、おはよう……」
 自分の声帯からガラガラの声が発せられて、二度咳き込む。口呼吸で寝ていたに違いない。よだれを枕や布団につけてしまっていないことを願いたい。切実に。
「えっと、今、何時?」
 キッチンで泡のハンドソープを出して手を洗っている諏訪くんの背中に問いかければ、
「八時過ぎ」
 夜のな、と諏訪くんは律儀に付け足した。
 今度こそ起き上がり、円卓に載せたままになっていた自分のスマートフォンを取り上げる。着信二件、メッセージ通知八件。会議は十七時スタートの見込みだった。
 やってしまった。アラームはかけていたけれど、なぜか明日の朝四時にセットしてしまっていた。
「たまにサボったってバチ当たんねーよ。おめーの不在でおめーの価値をわからせてやれ」
「うー……」
 声にならない声で呻いてしまう。右手で乾燥した髪の毛を何度かといて気持ちを鎮める。情けない。
「てか、鍵閉めろよな」
「ごめん。でも、開けててよかった。諏訪くんの連絡先知らないし。危なかった……」
「おめーが無事だからそう言えんだよ」
 ポストを開いた諏訪くんは血の気が引いたことだと思う。むしろ怒って血が沸騰していたかもしれないけれど、わたしの身を案ずる発言が咄嗟に出てくるのだから、その可能性は低いんだろう。
「食えそーなんあったら食っていいぞ。完全に俺の趣味の俺の晩飯だけど」
 目の前の袋に手を伸ばして、ちら、と中身を覗く。鯖の味噌煮、豚汁のカップ、大根のサラダ。とんでもなく健康的だ。ここからなにか一品わたしの胃に流してしまったら、諏訪くんの完璧な食卓が台無しになってしまう。
 手元から視線を移せば、諏訪くんは冷蔵庫の横に置かれていた二リットルのミネラルウォーターのペットボトルの蓋をひねって、キッチンの作業台に置かれたふたつのグラスに注いでいる。そのままラグの上に腰を下ろすわけにもいかず、諏訪くんに歩み寄って、差し出されたひとつを受け取った。
「ありがとう」
 乾いていた喉に常温の水が馴染んでいく。一気に飲み干してしまって、少し恥ずかしい。ごちそうさまです、とシンクに空になったグラスを置いた。
「食ってく?」
 冷凍庫から綺麗にラップで包まれたご飯が取り出される。どうにも諏訪くんは、わたしよりよっぽど几帳面らしい。
「や、さすがに申し訳なさしかないです……」
「んじゃ、どっか食い行くか? あれなら飲み行くか? 愚痴くらいなら俺でも聞けんことはねーぞ」
 もう諏訪くんのなかでは、わたしが予定を諦めることは確定事項になっている。
 ごろん、と冷凍ご飯がふたたび冷凍庫に放り投げられる。そういうところは、ガサツなんだな。基準がよくわからない。それに、今日のことだって。
「諏訪くんは、こういうことを誰にでもするの?」
「こういうことって?」
「まあ、こういうこと……。宿泊施設を提供したり、予定にはなかっただろうけど、ご飯を与える、とか」
 やはりわたしが捨て猫なのか。一時保護されて、どこかの団体に預けられるのかもしれない。保健所に連れて行かれた猫は引き取り手が見つからないと殺処分になるらしいけれど、慈善団体の場合はどうなんだろう。責任をもって、彼らが死ぬまで面倒を見てくれるのだろうか。
「ホームレスとか、知らんやつにはしねーぞ」
「はは、それはそうだろうけど」
「お、笑ったな」
「そんな、クララが立ったみたいに……」
 ふん、と鼻を鳴らして諏訪くんは手元のグラスに口をつける。随分と満足気だけれど、そこまでおもしろいことを言ってくれたとも、わたしが返せたとも思わない。
「今日は朝からずーっと仏頂面だったからな」
「……そう言われても驚かないや」
 自分の額と眉間を指先でこする。こんなところに若いうちに皺なんかつくりたくない。
 ぐい、と頬を両手で押し上げながらこれからの自分の行動を考える。今日はファミレスで会議をしているはずだから、今から駆け込んだっていい。どうせだらだらとミーティングとは呼べない雑談で時間が浪費されていることだろう。でも、なんだかんだ、そういう時間がじんわりとわたしをほぐしてくれたりするのだ。
 両手を腰に当てがったところで、スマートフォンのバイブレーションがごりごりと調理場のステンレスを鳴らしはじめた。もちろん自分のものではなく、諏訪くんのものだ。
「悪りぃ」
 諏訪くんはグラスを持っていないほうの手を小さく上げて、その電話に応答した。口ぶりからしてどうやら、ボーダーの先輩隊員かららしい。機密情報などが存在しているのではないか、と自分の居場所を悩んだのも束の間、諏訪くんはこちらを流し見て、わたしのほうへ手のひらを向けて止めた。そこで待ってて構わない、気にすんな、といったところだろうか。わたしが猫だったら、そんなハンドサインは通じないので、人間でよかったと思う。
 電話越しの人物が、今度は同期か後輩に変わったらしい。タメ口になった。こないだも言ったろ、とか、いい加減にしろ、なんて不平不満も吐き出していたけれど、てきぱきと一連の指示を出して諏訪くんは通話を終えていた。
「さっさと帰った日に限って、イレギュラーが起こるもんだよな」
 気だるそうに回された諏訪くんの首がぽき、と小さく音を鳴らす。半円を描く頭についていくくちびるの端で煙草が頭を下げた。
「……諏訪くんって、頼られたら、うれしいんだね」
「なんだそりゃ」
「そういう顔してた、今」
 わたしもいろんな人の世話を焼いてるけれど、それとは違う。確固たる意思のあるそれ。もっとも、頼ってくる側の質っていうのもこっちの感情に影響するんだろうけれど。
「……どっちがいいんだよ」
「どっちって?」
「誰にでもするって言うほうがいいのか、おめーにだから、って限定したほうがいいのか」
 先刻、自分が問いかけたことを思い出した。諏訪くんは換気扇の下でポケットから引き抜いたライターくるりとまわす。
「もう、それは絶対に嘘じゃん。わたしにだけだよ、ってのはさ」
 諏訪くんの言うとおり、今日はすっぽかしてふたりで飲みに行くのも悪くない。それに、彼が世話を焼く対象に選ばれるのだって。
 だから、きっとまた、わたしはどこかで近いうちに諏訪くんに頼むのだろう。
「ペペロンチーノって十回言って」