夜に橙

 線香花火を束で消化するような人間にはなりたくない。
 一筋の熱がちりちりと燃えて、ときに大きく瞬いては消えていく。そんなものを私は大切に守り抜いてきたのだ。

 トリオン体のつま先を眺めながら、革張りのソファーに沈み込む。辺りはしんとしており、目の前に設置された大きなモニターは切り出された黒曜石のようにつやつやと光っていた。
「太刀川くんってさ、お弁当開けたら一番好きなものから食べるし、ボーナスが出たらすぐに欲しいもの買うし、話題のミステリー小説があったらオチから読みはじめたりするんだよ」
 隣に座る出水くんは、突然振られた会話の内容に気が抜けたのか、私と同じように背もたれに深く沈む。人の多いエントランス付近と違い、観戦ブースの連なる階上は閑散としている。三歳下の天才シューターは隊長のプライベートにこれといった意外性を感じなかったようで「へえ」と言ってポケットに手を入れた。夜から防衛任務があるのに隊長がシミュレータルームからなかなか戻らないため、暇を持て余しているらしい。
「でもだからと言って、がっついてる感じでもなくてね……ある意味こだわりが薄いというか、淡白なんだよね」
「まあそれは、ちょくちょく感じますね。あの人のこだわりの対象って本当にごく一部なんで」
 例えば弧月の射程性能についてだとか、黒トリガーの所持者選別についてだとか、隊服のコートの丈感についてだとか、そういうことだ。彼の頭の大部分を占めるものは、絶対的な強さと相対的なかっこよさである。
「私は好物を最後に残すし、ボーナスは貯金するし、ネタバレを踏まないように気をつけるタイプだから、真逆」
 もう一度「へえ」と言った出水くんが退屈そうに目を閉じたため、私はうたた寝をする後輩への壁打ちという自堕落でいて心地よい行為をつづける。
「でも私の場合、貯めたお金で何かを買いたいわけでもないし、ネタバレに気をつけても結局読まないことが多いし、好物を食べるころにはお腹いっぱいになってるし」
「まあ、人生ってそんなもんすよ。そういう人の方が多数派じゃないですか」
「だからたまに憧れるんだ。太刀川くんみたいに……」
 無神経に、と言おうとして言葉を選ぶ。もう少し良い言い方があるだろう。大胆不敵だとか、図太いだとか、無頓着だとか、デリカシーがないだとか──。
「俺の悪口言ってたな? さては」
「まだ言ってないよ。考えてはいたけど」
 フォローをするつもりが結局一周してしまった思考回路にため息を吐いたところで、LEDの白い照明が陰る。ドアが開いたことには気付いていたけれど、私たちは大きなソファーの背もたれに隠れるように姿勢を低くしていた。だらけた同輩と後輩を覗き込みながら、太刀川くんは薄く笑っている。
「なんで怒ってるんだよ。昨日から」
「怒ってないよ。怒りそうではあるけど」
 不穏な空気を感じとったのか、出水くんは背筋を正し、ついてもいない隊服の皺をぱんぱんと伸ばしながら立ち上がった。
「先、下降りてますね」
「おー」
 代わりに座った男を横目に見る。背の高い彼は深く腰かけても癖っ毛が背もたれからはみ出す。私は下から手を伸ばし、それに触れた。
「なんだこのソファー、えらい高級だな」
「迅くん曰く、幹部が幹部候補を見繕うときに集まる観戦ルームだって。普段は談話用に開放されてるけど、意外と知られてないからたまに昼寝しにくるんだ」
「こんな良い所、もっと早く教えろよ」
「太刀川くんはボーダーに来たらずっと動き回ってるでしょ」
「まあ、代わりに大学で寝てるからな」
 たしかに大学で見かける太刀川くんは別人のように動きが鈍い。そのため本当にこの男が三門市を守るボーダーのトップランカーなのかと疑う生徒も多い。彼は大抵、階段教室の一番後ろでだらけているか、猫背で学食のうどんを食べているか、仲の良いゼミの友人らと雑談をしているか、もしくはサボって家で寝ているかだ。私はそれらを順番に思い浮かべ、首を振る。彩りに欠ける彼のキャンパスライフに少しでも活力を、と思い手渡したものは、彼にとって不要だったのだろうか。
 太刀川くんは先ほどの問いを目線だけで繰り返し、私の心情をうかがった。怒っているかと聞かれれば──それは微妙なところだ。けれど昨日からというのは正しい。私は大学で見たとある光景を思い出し、もう一度彼の罪を審議にかける。
 どうして私が作ったお弁当、他の女の子にあげちゃったの。率直に問えば、きっと彼は「腹すかせてたし、財布と弁当忘れたって言ってたから」と悪びれなく答えるだろう。事情はそれなりに予想できるし、彼の行いはある意味で人道的なものである。悪気も下心もないのだから責めるべきではないのかもしれない。
「やっぱり気にしないで。よく考えたら怒るようなことでもないから」
「そういうわけにもいかんだろ。経験上、怒ってないって言う女には最終的にふられるからな」
「……彼氏の過去の経験なんて知りたくないのに、そういうこと平気で言うところも嫌」
「やっぱり怒ってるじゃんか」
「今ちょうど怒りはじめた」
 つれない私の反応を、とくべつ面倒臭がることもなく彼は顎に指を添えしばらくのあいだ思案した。本当に考えているのか、考えるふりをしているのかはわからない。頻繁に嘘をつくタイプではないが、妙なところでサボる癖があるのだ。
「あれか、おまえに内緒でトリガー構成変えたこと怒ってんのか」
「それはべつに好きにしたらいいよ」
「じゃあ、録り溜めてたドラマの最終話うっかり消したことか」
「ほんとに? でもまあ、うっかりなら仕方ないね」
「もしかして、おまえの弁当食わせた友達がピーマンだけ残したの嫌だったのか」
「……ピーマン残したのはどうでもいいよ! お弁当あげちゃったところ気にしてよ!」
「そこか」
 どう考えたってそこだろう。ぽんと手のひらを打った恋人に、しゃべくり漫才のようなつっこみを入れていることが虚しくなる。私たちはコンビでなくパートナーだし、これはネタ会議でなく痴話喧嘩だ。それだというのに全くもって緊張感がない。
「夜までバイトなのに財布忘れたって言うから食わせたけど、めちゃくちゃ喜んでたぞ。彼女が作ったって言ったら青ざめてたけど」
「そりゃそうだよ。もらった方だって気まずいでしょう」
 なんだか相手の女の子に同情心すらわいてしまった私は、トリオン体の胸部に手をあててさすった。今はない心臓が遠くでぱしぱしと瞬いた気がしたのだ。
 彼と出会ってから、かれこれ三年ほどが経つ。
 あれは九月の終わり頃だったと思うけれど、まだしつこく残暑がつづいていたせいか、ガレージに残っていた手持ち花火をみんなで持ち出したためか、夏に始まったという印象が強い。何がかといえば、もちろん私の恋が、だ。
 玉狛支部の川沿いに、今思えばどういう集まりかよくわからないメンバーが揃い、夜まで他愛のない話をした。私はボーダーに入ったばかりの高校生で、見るものすべてが新しく、中でも新進気鋭の天才隊員であるらしい太刀川少年は、笑えるほどの輝きを放っていた。煌めく太陽のような嵐山隊長とは異なる、嫌に重心の低い溶鉱炉のような光だ。彼はコンクリートのふちに屈み、黒く波打つ川面を眺めながら「おまえが入ってよかったよ」と言った。
「どうして?」
「どうしてって今日、すごく楽しかっただろ」
「うん、すごく」
「だよな」
 たったそれだけで、充分すぎるほどだった。夏の終わりに始まった恋はすぐさま私の温度を上げた。彼の持つ途方もない熱量が私の胸に飛び火したのだ。そうして今に至るまで、心に垂れる一筋の火花がちりちりと胸を焦がしている。
 長いあいだ、私はそれを守り続けてきた。落ちないように。けれど燃え広がらないように。
「太刀川くんはさ、なんで私と付き合いはじめたの」
「おまえが付き合いたいって言ったんだろ」
「私が言ったから?」
「いや、違うな」
 顎に指を添えたまま、太刀川くんは首をひねる。
「おまえのこと普通に好きだと思ってたけど、どうやらかなり、いやめちゃくちゃ好きだって気付いたからかな」
 彼はなんの気なしに言って私を見た。夏と秋の真ん中で光る、黒い川面と少年を思い出して私はたまらない気持ちになる。
「困る」
「なんでだよ」
「普通に好き、は嬉しいよ。でもめちゃくちゃ好き、は困る」
「だからなんでだよ。問題ないだろ、大は小を兼ねる」
 恋愛においてあまり引用しない慣用句を口にしながら、太刀川くんは私の頬を親指で強く撫でた。
 彼は平気で、私の心にくすぶる幾筋もの火種を、ひとまとめにして火をつける。大切な一本を守りつづけていたのが馬鹿みたいに思えるほど、炎は太く燃え盛り、あらゆる場所に引火する。
「……赤すぎるな」
「見ないで」
 熱は顔にまで到達し、私の頬は丸く火照っていたと思う。一対一の勝負強さにおいて右に出る者のいないA級アタッカーは、とどめを刺すように「だったら、めちゃくちゃ好きって思わせるなよ」と笑った。
 加減を知らず、情緒を持たず、恥もてらいもない。そんな男にこれほど胸を焦がされて、いつか燃えかすになったらどうしてくれよう。彼は責任を持って、きちんと灰まで集めてくれるのだろうか。好きすぎて困る。困りすぎて泣ける。そうして私は思う。正反対でもかまわない。これは魂のアラートだ。防衛本能であり、反面教師であり、戒めであり、負け惜しみだ。
 つまるところ惚れた弱みを隠すために貼り付けた、これは薄っぺらな人生の標語である。
 彼の顔が傾いて触れるたび、私は何度でも思う。
「ちょっくらバンダーぶった斬って来るから、そのあと困ることしようぜ」
 線香花火を束で消化するような人間にはなりたくない。